どこからか匂う夕食の知らせ。
わぁわぁと駆けて行く子ども達の足音。
強い風が吹いていたか。
流れる茜色の空には恐いほどの雲があった。
なんだろう胸をつく郷愁。
ここはまるであの田舎とは違うというのに、
なぜこんなにも帰りたさを思い起こさせる環境に。
頬を伝う涙を想う。
泣いてはならないと言ったのは誰だろう。
取り戻す事無く消えたあの母か。
立てない子どもの胸倉を掴んだ大人か。
決して非難しない優しさを吐き違えた弟か。
それとも、自分自身だっただろうか。
帰りたいと願ってしまえば、
この足を止めるしかなく、それは出来ないと体が痛む。
どんなに、
どんなに願っていても、届かなければ得られない。
夢に見るほどの?
そんな郷愁。
「っは・・・」
目が覚めた。
そう言えば、ここは安宿ではない。
タバコの匂いとコーヒーの匂いが染み付いた壁と、
安っぽい家具は錯覚を起こさせるけれど。
ここは軍部。
そして、優しい軍人たちが休憩の為に身を寄せる一室。
報告書を書き上げて、あわてて列車に乗ったのが二日前。
そして、この部屋を利用している者達の上司に手渡したのが何時間前だろう。
肩からズルリと落ちてきた蒼い軍服を片手で押さえながら上体を起こす。
硬い申し訳程度のソファーはギシリと音を立てた。
差し込む光りは茜色で、
もうすでに夕刻になっている事を知らせた。
来た時には、わあわあと騒いだあの軍人たちは、
眠ってしまった自分を残して仕事に戻ったのだろうか。
ひどく心地良い空間だったのだろう、
人前で眠る事がともすれば苦手だと思っていたのに。
優しい人たちだと思う。
自分がしてきた過ちと覚悟を知ってか知らずか、
それでも優しい人たち。
けれど、確実に死を宣告する立場にいる。
腰には各々銃を持ち。
先の戦闘にも参加した者がいるという。
どんな顔をして人を死に導いたのか。
どんな顔をしてこの暖かな空間に戻ってきたのか。
ブルリと体が震えた。
差し込む茜色。
どこからか匂う夕食の知らせ。
子ども達の足音の代わりに、響くのは重い車の走行音。
ここは故郷ではない。
あの暖かな、しかし苦しい思いのあの故郷ではない。
しかし。
目覚めた唇はひどく乾き、
喉はヒリヒリと水分を欲している。
たまらず泣きそうになる。
もしかしたら、自分はここに残されて、1人生きていくのだろうか。
頭の隅では違うと答えているというのに、
心は警笛を鳴らし続ける。
置いていかないで。
1人にしないで。
もう。
暖かな空間なんていらない。
その終わりの寂しさを味わうなら。
暖かい人なんていらない。
だって自分を残して冷たくなってしまうのでしょう。
いつか消えてしまう命に怯えるのはもうたくさんだ。
奪っていかないでと。
「・・・エド?起きたのか?」
キィと音が鳴って、人工的な光りが一筋伸びた。
木製のドアは蝶番が痛んでいたのか、耳障りな音を立てるが、
それでも孤独な空間を埋めるには十分だった。
慌てて振り向けば、金色の髪に青空の瞳。
しかし、いつもの上着を着ていない男が1人。
そう言えば、肩に掛けた蒼い軍服からは彼が愛用しているタバコの匂いがする。
あぁ、彼の。
キュッと蒼い軍服を握る。
もしかしたら、しわに成ってしまうかもしれないけれど、
そんなことを考えている余裕は無かった。
ただ、泣くのを必死で堪えた。
「・・・・」
男は静かなにこちらに歩いてきて、
硬いソファーに腰掛けた。
体温なんて感じる筈のない右手に少しだけ触れて、
じんわりと暖かくなったような気がする。
俯いて、ただ唇を噛む。
帰りたいと思ってはならない場所を、
この空間は自分に見せ付ける。
なんと残酷なこと。
「ごめんな・・・寂しかったか?」
ボソリと呟かれて、頭をポンポンと撫でられた。
顔を上げれば、その瞳は細められて、
まるで彼の方が寂しいのではないかと思ってしまう。
泣いてはいけない。
言ってはいけない。
寂しいなんて。
帰りたいなんて。
それを言えない大切な人がいるではないか。
「・・・っ」
「うん。分かってるから」
抱き込むように。
けれどふんわりと。
片方の腕は頭の上に。
もう片方が肩口に。
香るのはタバコ。
そしてコーヒーの苦さ。
喉はカラリとして。
瞳の奥は焼けるように熱い。
触れる彼の体温は心地良く。
震える胸はツンと痛んだ。