オーディの妻がこの世を去ったのは、この店を始める少し前だったか。

 

 

 

 

 

【あなたが私にくれたもの】

 

 

 

 

 

 

オーディには妻がいた。

足の長いブロンドヘアーでスタイル抜群の美人・・・というわけではなく、

笑顔が魅力的な可愛らしい女性であった。

 

 

オーディが本当に愛した彼女は、よく笑い料理が上手く、人を温かくさせる名人だった。

ただ、身体が弱かった。

 

 

 

それはオーディが定職についていた役所を辞めようかと悩んだ時のこと。

毎日続く書類の整理、確かに役所の仕事は安定していたし、いつも定時の帰宅が可能だった。

 

しかし、オーディには捨てきれない夢があった。

その夢はずっとオーディの胸の中を燻り続けていた。

 

 

 

 

寒い冬の日。

暖炉に薪をくべて、椅子に並んで座って、妻は暖かな膝掛けを愛用していて。

時折、コホリと咳をしながら。

 

「あなたの好きにしてください。それが一番いい事なんですから」

 

と言った。

 

 

オーディは驚いた。

自分が役所を辞めようなんて、妻には話していなかった。

こんな迷いごとを言って、妻に余計な心配をかけることは本位ではなかったからだ。

 

妻は知っていた。

自分が他の事業を志していた頃に出会った彼女なのだから。

しかし、自分の望んでいた事業は上手く起動に乗るかどうか定かではなかった。

 

彼女との結婚を考えた時に、その夢は諦めたものだった。

身体の弱い彼女に自分の為に要らぬ心配を掛けさせたくなかったからだ。

安定した収入の下で、彼女と幸せに暮らせるならば、自分はその小さな夢を捨てられるとさえ思ったのだ。

そして、それは間違っていたとは言い切れない程の幸せを自分に与えてくれた。

 

 

彼女との満ち足りた日々のなか、月日は流れていった。

子どもが生まれた朝の風景も、風邪をひいた我が子を背負って医者に走った日も、

今でも鮮明に思い出せる、家族との一コマである。

 

 

そんな子どもも既に家を出て、月に2、3度安否の便りを送ってくるだけになっていた。

 

 

自分が家族の為に自分の夢を犠牲にしたのだなんて、1度たりとも思ったことはなかったけれど、

ずっと以前に諦めたと思っていたその夢は、未だに自分の胸にしっかりと残っていたのだ。

 

 

「エリザ・・・・それは?」

 

「ふふっ珈琲をずっと愛し続けているんですもの。私ならもう充分。

 それに、私あなたの淹れてくれる珈琲が大好きなの・・・えぇ、とても」

 

 

もう若さなど遠に過ぎていた妻は、それでも可愛らしく笑ってそう言った。

 

 

あぁ、自分はこんなにも愛していた妻に、こんなにも理解されていたのだという喜び。

我侭であると封印していた夢を彼女が共に見てくれるという喜び。

 

 

「ありがとう・・・・」

 

 

 

 

フワリと雪が舞ったとても寒い朝に、オーディは退職届を役所に提出した。

皆勤のオーディが急に辞めるといったことに職場の仲間は一様に驚いたけれど、

オーディの表情がいつにも増してにこやかであったので、若干の寂しさのまま彼を送り出してくれた。

 

 

妻の体調が良い日は一緒に遠くまで豆を買いつけに行った。

一つ一つ根気強く選んで、淹れた珈琲の最初のお客はいつも妻だった。

 

 

「おいしいわ」と、彼女が笑う。

あぁ、自分の道は間違っていなかったのだとそう思う。

 

 

あの時、自分の夢を追いかけて走っていたならば、

こんなにも満ち足りる日々の延長には辿り着けていなかっただろう。

 

 

退職金で通りの片隅に小さな店を建てる用意を進めて、

広告や花の用意を妻と相談している時に、妻は突然倒れた。

 

 

コホリと咳をした時に赤い血が鮮明に映ったと思ったら、

妻はゆっくりとその場に倒れていった。

 

 

 

 

長くないと医者に告げられる前に、妻は言った。

 

 

「あなたのお店が見られないのが残念ね。私が一番のお客さんになるつもりだったのに」

 

 

 

 

 

カタン

 

小さく扉が開かれる。

ヒュウと風が入り込んできて、オーディはそっと瞼を開いた。

 

 

つぅと流れてくる涙に気が付いて、自分が昔の夢を見ていたのだと気が付いた。

あれから随分と時間が経ったにも関わらず、彼女は色を失わず時折こうして夢に現れる。

 

 

少ない量でも広告を出したり、花で飾り開店を祝おうと言い合ったが、

一番望んでいた客が来店しないその店を華々しく開こうとはどうしても思えなかった。

 

けれど、店の夢はどうしても叶えたくて、それだけは残したくて、

通りの片隅に準備するはずだった店を、小さな路地裏の入り組んだ道の先に用意した。

 

子どもからは「そんなところに客などこない」と反対されたけれど、

それでもいいと思ったのだから仕方ない。

 

 

「本当にしょうがない人ね。・・・・でもあなたらしいわ」

笑う妻の声が聞こえたから、それがきっと真実なのだと思うのだ。

 

 

 

それにここでの仕事は悪くはなかった。

連日忙しさに目を回すこともなく、毎日同じ書類を抱えることもない。

気まぐれに現れる人々の日常の中のほっと息をつくそんな場所になれればそれで十分なのだ。

 

 

 

「オーディさん・・・いない?」

 

 

すっと目元を拭いカウンターの奥から顔を覗かせれば、

可愛らしいお客が窺うようにしてこちらを見ているのに自然と笑みが零れる。

 

 

外は随分と寒いのだろう、ちょこんとある鼻の頭がうっすらと赤くなっている。

 

 

「いらっしゃいませ、エドワードさん。ささっ中にお入りなさい。

 外は随分と冷え込んでいるようだ」

 

 

にこりと笑う性別を偽っていると聞いた少女の顔が、

髪の色も声も背格好もまったく違っているというのに、どこか妻の笑顔を思い出させた。

 

 

 

あぁ、彼女が生きていたなら、この少女をどう迎えただろうか。

暖かいミートパイを焼いたかも知れないし、可愛らしい帽子の1つも編んであげたかも知れない。

 

 

「今日はどのような用で?」

 

「前に頼んだモノと同じモノがあるかな?」

 

 

旅の途中であるから、かさ張らず何時でも美味しく飲めるようにと配慮した珈琲。

まだ幼い胃に刺激の強すぎるものは悪かろうと、優しいモノを選んでいる。

 

それでも、この少女が眠気を払うためにその珈琲を利用しているのだとしたら、

自分はこのまま少女に珈琲を与えていいものかと若干迷う。

 

 

 

すると、こちらの躊躇いが伝わったのか、少女はわたわたと手を動かした。

 

「あっ違うんだ。前に用意してもらったのを全部飲んでしまった訳じゃなくて、

 故郷の人にも飲ませてあげたいなぁって思ってさ。

 幼馴染がいるんだ。そいつも一人前になる!って頑張ってるから・・・あげたいなって」

 

 

へへっと笑うと故郷を思い出したのか少しだけ目が細くなった。

 

故郷に待っていてくれる人がいるなら、そんなに嬉しいことはない。

この少女が少女でいられる場所があるならば、そんなに喜ばしいことはない。

 

 

この場所を望んで来てくれる人が居る。

その何と幸せな事。

 

ここに妻はいなくとも、

彼女はきっと笑ってくれているのだろう。

いつか再び出会う彼女にとびきりの思い出話をしてあげようと思う。

 

香りの良い珈琲とともに。

 

「あなたに心地の良い一杯を」

 

 

ロイエド子