「義兄さん」
「君にそう言われるのは、何やら照れるね」
あぁもう、本当に。
自分として考えてみても、どうしてこんな男に姉が攫われてしまうのだろうか。
童顔であるのを差し引いたとしても、かなりの歳の差で、
確かに金と権力は持っているが・・・。
「姉さん、寝てしまったのですか」
「あぁ、宴会だなんだと夜通し騒がしかったからね」
ここは中央。
結婚式を終えて、自分は新居にいたりする。
しかも、姉の旦那となった男と二人で。
幸せに、誰より僕を愛してくれた貴女だから、
誰より幸せになって欲しいと望んでいました。
離れてしまうことは、とてもとても寂しいけれど、
寂しさを乗り越えるだけの幸せが貴女に訪れるというのならば、
それすら嬉しくなる。
「姉さん、お腹出して寝てしまうことがよくあるんです」
「あぁ」
「牛乳も相変わらず苦手なんです」
「そのようだね」
「でもシチューは大好きで、自分の得意料理でもあるんです」
「美味しかったよ」
「料理もずいぶん上手くなったんです」
「あぁ」
「玉子も焦がさなくなったし、キュウリもつながっていないし」
「・・・あぁ」
「雷が苦手なんです。雨の日も」
「そうか」
「暗い玄関も、初雪の日に一人になるのも恐いんです」
「あぁ」
淡々と。
けれど、はっきりとした声で。
共に取り戻したその旅路を、
ゆっくりと辿るように、繰り返し、繰り返し。
同意するというよりも、
その声を聞く。
誰よりも近くにいた者からの言葉を感受する
「1人で泣く人だけど、1人で泣かせたくはないのです」
宴会の騒がしさが嘘のように静かなリビングは
少年から青年に変るその声をよりはっきりと響かせていく。
一回ぐらい殴られるかと覚悟していた。
それ程に大切な彼の半身を奪っていくのだから。
その痛みは、誰かが想像できるものではなく、
盲目な言うなれば親愛、それでいて包括するような依存を抱えていた彼から
その人を奪うことはどれ程であろうか。
新しいふかふかとしたソファーは、
声を吸い取ってしまいそうなのに、その声は消えない。
威圧を感じるのでも、暖かさを感じるのでもない言葉たちは、
それでも確かな存在を持ってそこにあった。
ゆっくりと持ち上げられたその金色の頭部と、同色の瞳。
それは家族であることの証明の色。
瞳が合わさり、その奥を覗きあう。
「姉さんをお願いします」
「はい」
覚悟とその決意を問う
幸せにしてあげてください。
そして、貴方も幸せになってください。
いつも前を睨んでいたのです。
鎧の弟を足りない腕で必死に抱きとめて、
もたれてくる重たい荷物を背負い続けて、
足を動かしていたのです。
そんな女性はこの世でたった一人です。
誰よりも純真で、誰よりも暖かく、
罪を持ち、そして、恐がって泣いていました。
流す涙ではなく、耐える涙でした。
気付くことすら許してくれず、
慰めようとすれば傷ついた顔をしたのです。
姉をお願いします。
こんな僕の言葉に『はい』と答えた貴方は、
その意味と覚悟を持たなければならない。
姉の前を歩いてください。
いつも自分の前を切り開くようにして先達てくれた人だから、
貴方が導いてあげてください。
でも、手を伸ばして。
姉がいつもそうしてくれていたように、
決して迷子にならないように。
後ろをいく者が寂しくないように、
ここにいるよと。
手を伸ばしてあげてください。
声を聞いてください。
いつも心の底に何かを埋めてしまうのが得意な姉の
声を聞いてあげてください。
音ではなく声を。
それは涙かも知れない、それは夜の呼吸かも知れない。
決して目に見えるものばかりではない。
天邪鬼ですが、それでも言ってあげてください。
ここにいるよと。
声を聞いてあげてください。
生意気にもこんな年下な僕ですが、
何も思わないままで、何も伝えないままで
大切な姉を貴方の妻にすることはできません。
等価交換は何も悲しみだけを連れてきた訳ではなかった。
貴方の幸せの等価に姉の幸せがあって、
姉の幸せの等価に貴方の幸せがある。
結局はどちらの幸せも欠けてはならないということ。
だから、貴方は自分が幸せになることを躊躇してはならない。
幸せに、誰より僕を愛してくれた貴女だから、
誰より幸せになって欲しいと望んでいました。
それは確かな祈りになって、今日もここにあります。
幸せになってください。
貴女の眠る音がする