泡になって消えてしまったお姫さまと
嘘を知っていながら王子さまと過ごしたお姫さまと
どちらが辛かったのだろうか。
愛しいと思っているその気持ちは同じなのに。
かたや海の底
かたや王子の隣
愛されていたのはどちら?
愛していたのはどちら?
それを知って王子さまはどうするのか。
■ 箱の底に残っていたモノ ■
困り顔でこちらを見ている女性は、
まぎれも無く准将の奥さん。
いや、この新聞の報道が正しいのだとすれば、元妻ということになる。
エドワードはようやく痛みが治まってきていた頭の奥が、
きゅっと縮まるように感じていた。
エドワードは扉を開いてそのまま病室の中に進んだ女性を
黙ったままで見続けた。
女性は、元准将夫人その人であり、優雅な所作も変らずそこにあった。
変っていたのは、いつもの貼り付けたような笑顔ではなく、
動かないエドワードを困ったように見ているその表情であろうか。
「凄い顔・・・そんなに、ここに来ることが不思議でしたかしら?」
夫人のくすくすと響く声は可愛らしく、
フワリとしたスカートがそろって揺れた。
勧めてもいないのに、夫人はベッドの横にあった簡易椅子を引き、
スカートが皺にならない様に配慮しながら、そこに腰掛けてしまった。
どうやら、顔を見たのですぐに帰る・・・という気はないらしい。
「・・・・こんなところに来ていいんですか・・・あっと・・・」
とっとと帰れという声を滲ませて、そう言ってみたのに、
いつものように彼女を呼ぼうとして声がつまった。
どんな事を言われるか、一瞬の間にいろいろな事を考えてしまっていたエドワードに、
夫人は何もなかったかのように返す。
「あらっ名前ですか?ふふふっ・・・准将夫人では通じなくなりましたものね。
ローラとお呼び頂いて構いませんわ」
何がそんなに楽しそうなのかと。
そう聞きたいと思わせる程に、元准将夫人改め、ローラはそう言ってみせた。
エドワードは拍子抜けした。
今までと明らかに変りすぎているのだ。
姿が同じな双子の妹でしたと正体を明かしたならば、
まったくそうだったのかと頷いてしまいそうなほどに。
「・・・・これが地ですのよ?
これが私。ローラという1人ですわ」
じっと自分を見つめているエドワードに、笑い声を止めたローラが静かにそう告げた。
その声がとても静かであったものだから、
エドワードは金色の瞳を一度だけゆっくりと瞬かせた。
「父親の姓にも、マスタングという姓にも縛られず、
私という1人の女性の・・・・・これが私なのですわ」
可笑しいでしょう?と、ローラは首を傾げて、エドワードを見つめた。
ローラとエドワードは互いに良い関係とは言い難い関係であったと自覚していたものだから、
ローラが本音と取れる言葉を言ったことに、エドワードは驚き、
エドワードがそれを受け取ってくれるか、ローラは心配していた。
けれど、エドワードはとても賢い子どもであったし、
ローラも決して愚かな女性ではなかったので、互いに互いの思いを
量り違える事無く受け取ることに一応の成功をみせた。
「・・・・あんたは、それでいいのか?」
「えぇ、私はそう願ったの」
マスタングという姓を捨てたと言う女性は、
とても美しく笑ってみせた。
ふぅと息を付いたローラは、
今までの私はとても息苦しかったのよ、と前置きし、
それまでの事を少しずつエドワードに話始めた。
「私は、ずっとお父様に『おまえはこの家の為に』と言われ続けていたから、
その道を進むのだと思って大きくなったわ。
その為には、ロイさんと結婚して、子どもを産んで・・・・。
・・・・でも、私はずっと愛されたかった。愛してもらいたかった」
薄いピンク色の綺麗な唇は、
歪められる事なく、過去をたどっていった。
その声はとても嘘をついているような声ではなく、
エドワードは少し持ち上がったベッドの背に身体を預けて、
その声を聞き漏らさないように注意して聞く。
「彼が何を求めているかなんて、知らなかったけれど、
いつかは私を見てくれるだろうって思ったわ。
・・・・・彼の話にはいつも貴方が出てきていたから」
「俺が?」
エドワードは声に少しの驚きを交えて、ローラの方を見直した。
ローラは小さく頷いて、エドワードの金色の髪に手を伸ばした。
「そう、いつも彼は貴方の話をしたわ。
他の話もしたけれど、それに心なんてなかったもの。
彼が少しでも気に入ってくれるようにと、たくさん読んだ錬金術の本を話しにするのだけれど、
少し話すと、彼は決まって『鋼のだったらきっとこう言うだろうね』とか、
『この話はきっと彼も気に入るだろう』とか・・・・本当にそう言うのよ・・・・」
『こんな話ができるのは君ぐらいだ』と。
そういったロイの言葉をエドワードは急に思い出してしまって。
それが自分をどれだけ救ってくれたかを、忘れる事無く思っていたから。
だから、心臓がドクリと動いてしまうのを押さえる事はできなかった。
「私はまだ貴方にあった事がなかったから、彼の心にいるのが、小さな男の子で、
そうなら、きっと私をいつか見てくれるだろうって・・・・自信があったのよ。これでもね。
あの日・・・・結婚式のその日に、貴方に会うまでは・・・ね」
小さな頭を撫でるようにして、ローラは語った。
「すぐに分かったわ・・・・貴方が女なんだって。
ロイさんは気付いていなくても、きっといつか貴方が彼を攫ってしまうんだって。
・・・・・こんな惨めな事はないと思ったわ。
神の前で一生を誓い合うその人に、思う人がいて、・・・・貴女も彼を思っていて、
なのに、知らない振りをして、私と彼が結婚するなんて・・・」
不揃いに切られたエドワードの髪を、
梳くようにして、ローラは触れる。
瞳にはもう憎しみなんてモノはなくて、ただ淡々とその時の思いを口に乗せて。
「いつだろうって怖かった。私はどうなるのか・・・・どうしてロイさんは私を見てくれないのか。
私は愛されたかっただけなのに・・・・」
「ローラ・・・・さん・・・・」
エドワードがローラに声をかけた。
その声は「大丈夫か」と告げるよりも相手を気遣っている声音だった。
白いベッドに横になる小さな少女に向けて、
ローラはふわりと笑ってみせた。
「けれど、私は彼に出会えたのよ。それは素敵なことだった。
きっかけはとても些細な事だったのに。それだけで世界は変わってしまったの」
ローラの言う「彼」が、きっとロイが言っていた「愛する人」なのだと、
エドワードはすぐにそう思った。
その人の事を言うだけで、ローラはとても幸せそうに笑うのだ。
「何も持っていない人かも知れない。お父様のいう理想の人ではなかったかも知れない。
けれど、私にとっては彼は史上の人だった。
私の前で笑い、私と一緒に話し、私と私の幸せを祈ってくれた人。
私が始めて・・・・幸せを祈った人なの」
人が笑うという事が、こんなにも空気を明るくするものなのだと、
エドワードは思った。
真っ白だった病室が、いまではこんなにも暖かい。
人は誰かを思ってこんなにも綺麗になれるのか。
「私は、いつも願ってばかりだった。
愛して欲しい、幸せを与えて欲しい・・・・そればかり。
そんなのは本当の幸せなんかじゃないわ。
私は、愛する人を見つけたの。その人を幸せにしてあげたいと思ったの。
だから、後悔なんて1つもないわ。
もちろん・・・・ロイさんと出会えたことも、貴女に出会えたこともね」
肩口で切られてしまったエドワードの髪から、
ローラは頬に手を当てた。
白く細いローラの手が、エドワードの頬を包む。
「本当よ。貴女に会えてよかったわ」
エドワードが真っ直ぐみたローラの瞳は、
泣き出してしまいそうに揺れていた。
ぎゅっとエドワードの胸が痛む。
「俺っ・・・・俺は・・・・・」
「ごめんなさい・・・・エドワードさん。
私は貴女を羨んで、とても酷いことをしたわ。
ロイさんと一緒に居ることで、貴女が傷ついていたことも分かっていた。
許して欲しいなんていえないけれど、・・・・彼と離れなければならない自分の不幸を、
それで埋めようだなんて、そんな馬鹿なことをしてしまった。
その結果・・・・貴女をこんな目に合わせてしまった・・・・」
とうとう耐え切れなくなったローラの瞳から、
ボロボロと涙が零れて落ちた。
エドワードの頬を包んだ手も力を無くし、ポスリとベッドの上に落ちてしまった。
エドワードは首をふりながら、
ペッドに預けた背を起こし、落ちてしまったローラの腕を取る。
「俺は・・・ね、ローラさん。
禁忌を犯してしまった罪のある身なんだ。
それでも、大佐・・・・准将は、俺のことをここまで導いてくれた。
それなのに、女だなんて、言えないまま、隠していたのは俺で、
そんなことで皆を騙し続けてきたのに、こんな俺に謝る必要なんてないんだよ?
・・・・・好きだなんて、言えないし、
これからどうなるってものでもないし・・・・ね?
ローラさんが謝る必要なんてどこにもないよ・・・・」
今までローラがしたように、
エドワードはローラの頭をゆっくりと撫でた。
まるで幼子をあやすかのように、ゆっくりと撫でた。
「ちがっ・・・・それは違うわ」
エドワードの腕を遮るように頭を上げたのはローラで、
流れる涙にしゃくり上げながらも、つまった声でローラは続けた。
「貴女は・・・・彼に好きだと告げてもいいし、
これから道なんてどうでも続いていくものよ・・・・そうだわ」
思いを愛しい人に告げられないなんて、どんなに辛いことだろうかと、ローラは思う。
自分に心から愛する人が出来た今なら、それがよく分かる。
憎しみに駆られて、それすら気付くことのできなかった、愚かな自分がいて、
その為に傷つけてしまった人がいる。
それすら責めようとしないで、ひたすらに自分が悪いといい続ける子どもがいる。
ねぇ、ロイさん。
この子は本当に良い子ね。
『子どもがいるんだろ?あんたは死ねないよ』
小さな身体で、怪我をしながら、
私を背負って言った言葉。
あの時泣いてしまったのは、きっとこの子がとても優しかったから。
こんな自分を死なせまいと、必死だったから。
ロイさんが愛さずにいられなかった気持ちがよく分かるわ。
ローラは涙で濡れた頬をエドワードの頭に持っていき、
傷に触れないように注意しながら、細い腕で抱き込んだ。
「そんな風に我慢しないで。
好きな人に好きだと告げることが、罪だなんて。
そんな事、決してありはしないから。
大丈夫・・・・・世界はとても暖かいのよ。
貴女が望むなら、そこに必ず手が届くわ。その為の願いをやめたりしないで」
フワリと香る優しいミルクの香り。
どこか酷く懐かしくて、堪らずその腕に縋る。
何よりも自分を守ってくれる。
無条件の優しさを思い出す。
「でも・・・・俺は・・・・俺にはそんな資格なんて」
ごめんね、母さん。
俺は恋なんてしてはいけなかったんだよ。
「・・・・人を好きになるのに、資格が必要なら、
誰かの幸せを願うことのできる貴女に、
その資格がない訳がない・・・・大丈夫。大丈夫よ」
いいのかなぁ。
そんな、こと。本当に?
いいのかなぁ。
大佐に好きだと・・・・そう言ってもいいのかなぁ。
「自分を伝えるってとても素敵なことよ。
私も・・・・貴女も。もっとそうして、良いと思うの」
腕を解いて、悪戯の打ち合わせをするように、
ローラは小さく顔を覗き込んでそう言った。
その顔がとても真剣だったから、
エドワードは少しだけ目を見開いて、そして、ゆっくりと笑った。
「・・・・・いいのかぁ」
「もちろんよ。貴女が思っているよりも、
ずっと世界は優しいと思うわ。
そこに信じる人と愛する人がいるなら、尚更ね」
もう一度、2人は声を揃えて、笑って。
ローラは愛する人とその子どもに会いたいと言って。
エドワードも堪らなく大佐に会いたいと思った。
「内緒・・・ですけれど、
この後、私・・・・彼のところに行くのです。
息子と2人で。
だから、とても幸せなんですよ」
内緒話というように、こっそりとローラはエドワードに耳打ちした。
だから、次は貴女の番ねとも告げて。
幸せを願って、幸せを手にして。
そうして生きていければいいと。