春ももうすぐそこという季節になって、
突然の寒波の襲来かと思えば翌日には汗ばむ程の陽気であったり。
膨らみ始めた木々の芽を見つけながら歩く街路に、
ぼぉっと目線を動かしながら家路に着いた。
目だった上官殿の嫌がらせも、毎度代わり映えのしないテロの予告状も、
一応の区切りを見せたのか静かなもので、
こうしてその日のノルマさえ終わらせていたのならば、日の高い時刻に帰ることも可能であった。
コツコツと靴が鳴るのは整備が行き届いている石畳を歩いているからで、
軍から配給されているこの革靴も、階級が上がるのに合わせて上等なものになっているのだと知る。
商店街に差し掛かり、そういえば最近は車で送られてばかりであったから、
こうして歩いて家路を帰るのは久しぶりだったかと思う。
部下であるハボックと終業の時間が重なれば有無を言わさず帰宅の運転を任せていたのだが、
今日は日も高く、穏やかな気候であったため歩いて帰るものまた良いかも知れないと思ったのだ。
交差点の角には鮮やかな色彩の店があった。
ポップな広告と共に置かれているのは色とりどりの花の洪水。
季節はもうすぐ春。
しかし、その場所だけは周りとはずいぶん早く春を先取りしているらしかった。
向かいにあるオープンカフェからの眺めも随分と素晴らしい物なのだろう、
午後のティータイムを過ごす初老の男性やおしゃべりに興じる奥様方、
恋人の訪れを待っているのかそわそわと愛らしい女性まで。
様々な様相の人々がそこに座ってひと時を楽しんでいるのだろう。
春と言えば自宅には昨日たくさんの野菜が届けられた。
それは妻の弟が田舎の家庭菜園と言うには少々立派な菜園で作っている野菜たちで、
朝取りのものをそのまま中央直送で送ってくれたもの。
青い葉は瑞々しく、土の付いたままの根菜は新鮮さを物語っていた。
「明日はこれでシチューだな!」
シチュー好きな妻は送られてきた野菜たちを確かめながら献立を考えていた。
考えるといっても妻の頭にはすでにシチューしかないようなので、結論から導き出したようなものだ。
そんな姉の思考をよく知っている弟は、
シチューに使える野菜をどっさりと詰め込んでいるような気さえする。
もちろん私としても妻のシチューは好物なので、異論はないのだが。
コトコトと時間をかけて野菜がトロトロに煮込まれたそのシチューは、
とても優しい味がする。
香辛料ばかりで舌を刺激するような料理ではなく、暖かい味のする料理だと思う。
離乳が進み、柔らかいものならば食べられるようになった幼い娘たちにも、
トロトロになった野菜は与えても問題はなく、
妻はスプーンに少しすくっては小さな口に運ぶ所作を繰り返す。
一生懸命に咀嚼しようとする小さな命の動きに感動しながら、
一緒にスプーンを繰り返し娘の口に持っていく。
母親の味というものがどこか特別であったのは、
こんな背景があったからなのかも知れないとふと感じる。
こんなに小さな時から、喉に詰まらせないように、熱くて舌をやけどしないようにと気を配り、
遅い食事のスピードに合わせて、ゆっくりと繰り返し繰り返し。
こんな愛情の与え方をされていたのだろうか、幼かった頃の自分もまた。
親になった時に初めて親の有り難さが分かると聞いた事があるが、
なるほどそうなのかも知れない。
目に見えて、記憶や体験で感じていたその愛情にももちろん感謝して、
有り難いと思っていたけれど。
こんなに無防備な自分を、一生懸命育ててくれていたのかと思えば、
どうしようもなく泣きそうになってしまう。
聞いた事のない当たり前の日常が本当に大切で。
もちろんこんな話を自分は娘にすることなど無いのだろうけれど、
この娘たちが親になった時にどう感じてくれるのか、
くすぐったいような気持ちになる。
同じ事を毎日繰り返すという事がどれほど尊い行いなのか。
戦場を経験し、友を失い、深い絶望と、明けないでくれと願った夜を知っている。
明日が怖いと思った毎夜の嘆きは今でもこの胸にある。
この真綿のような毎日がともすれば失ってしまうかも知れないもので、
それを考えればどうしようもなく怖くなってしまう。
ある戦場へ行く戦士たちは、みな家族がいるのだと聞かされた事がある。
守るべき者を残した者が、率先して戦場へ連れて行かれるのだと。
「なぜ」
答えは、「生きて返ろうとする意思が強いから」
残した者がいる者こそ、あの前後すら分からなくなる極限の状態で、
自分を保ち、また「生きて」帰ろうとするのだという。
守る者がいるからこそ、彼らは「戦場」へ行き、
「生きて」愛しい者たちのもとへ帰ろうと必死に働くのだという。
そんな悲しい戦士たちがいるのだという。
パパは軍人だから。
もしかしたら、とてもとても悲しいけれど、お前たちの姿を明日見られなくなるかも知れない。
もしかしたら、明日には遠い銃弾の空の下にいるのかも知れない。
けれど。
愛する者がいるものが生きて帰れるというのならば、
パパは誰よりも生きて帰れる気がするよ。
腕が?がれようと、足が吹き飛ばされようと、
地面を這ってだって生きようと思う。
血の海でも、骸の原っぱでも、銃弾の嵐だとしても。
どんなに戦場で命を落とすことが軍人として望まれる死であったとしても、
お前たちがいないような場所で、
軍旗に包まれて、軍歌に送られて死にたくはないのだよ。
望むべきは、そんな孤独な死ではなく、
あの暖かな場所に帰ること。
お前たちの体温をこの腕に知ってしまった時から、
パパは死ねない軍人になった。
そうしてもう1つ、そんな悲しい現場を作らない為に、
今日も働いている。
あぁ、明日もし早く帰れるなら、
このオープンカフェに皆で来ようか。
ミルクが嫌いな妻にはハーブティ。
娘たちにはぬる目のミルク。
私は何を注文しようか。
そうして、通りの先にある色とりどりの花を眺めて、
一緒に春を待つとしよう。