湿った風が通り抜けていく。
ここに居てくれる人が欠けたその隙間に入り込むように。
花びら鎮魂歌
歩くたびにピョコピョコと音がなるサンダルを夫が買って着たのは、
この子がまだ生まれてもいない時だった。
お腹が膨らみかけてはいたけれど、性別すら分かっていなかったそんな頃。
『なんで女の子用なんだよっ』
『・・・そうか、何故だろう。けれど、これしか目に入らなかったんだ』
苦笑いというか照れたように笑った夫は、
カシャリとサンダルに撒いてあった保護用の薄い紙を元合ったようにしまい大切そうに箱にしまった。
とても小さなサンダルは、細いピンクの紐を甲に配していて、小さな子どもに靴連れを起こさないように
配慮されていた。
『歩くたびにピョコピョコと鳴るこのサンダルを履いていれば、
きっとよく歩くこの子も迷子にならずに済むよ』
『君の娘だから、元気な子だろう』
小高い丘の上に、水桶と小さな花束を用意して小さな娘の手を引いて歩く。
娘は歩くのが上手になってから、抱っこをねだることが少なくなった。
何より足を進める度にピョコリと鳴るサンダルが楽しくてしかたないらしい。
足下を見ながら、力いっぱいに足を動かす。
サワサワと風が草を撫でる音の他には静かな場所で、それでも遠くにはセミの声が聞こえていた。
「・・・まったく、妬けるよなぁ・・・本当」
貴方が消えてしまったという東の果ては、あまりに遠すぎて。
貴方に会うのが随分遅くなってしまうから。
この街から一番東が見通せるこの場所に貴方の眠る場所を用意した。
少し先には崖があって、その下はすぐ海で。
貴方が最後に着ていた蒼が溢れている場所。
その場所はさすがに郊外の郊外であるから、列車でも随分とかかってしまう。
まだ太陽の上がりきらない、涼しい時間に来ようと思えば、
避暑地として利用される2つ先の駅にある最後のロッジに泊まるのが最適だろう。
実際自分たちもそのロッジを毎年この日に合わせて予約しては利用している。
そんな場所だというのに、
彼の名前を記した小さな石の前に多くの品物が置いてあった。
青く瑞々しい花は日にちを跨いだようには見えない。
まだ暗いうちにここに供えられたのだろう。
彼の好きな酒のラベルが見える。
栓が抜かれているけれど、触ってまだ冷たい。
彼が珍しく吸っていたという煙草もある。
戦場での趣向品だと聞いたことがあったが、自分には分からない。
箱ごと置かれているのは市街で有名なチョコレート店のもの。
あの人は甘いものも好きだった。知る人は少なかったけれど。
萎れていない青い花。
温まっていないお酒。
無造作に置かれた煙草。
溶けていないチョコレート。
「あぁ・・・あんたは何処でどんな顔して見てるんだろうな」
あいつはいつも突然に降ってくるような優しさに弱かったんだ。
上層部の狡猾な罠とか嫌がらせとかには驚かないくせに。
むしろ楽しそうに口の端を上げてニヤリと笑って過ごすくせに。
「仕事をしろと」いい続ける副官が、仕事に疲れて眠ってしまった彼の肩に掛けた毛布に気付いた時や
キツイ煙草を吸うヘビースモーカーが「煙草を寄こせ」と言われた時に差し出した銘柄の違う煙草だとか。
そんな時は少しだけ言葉に詰まった後で、目を動かして、
「まったく」と短く言って、少しだけ笑う。
俺、あんたのその顔が好きだった。
そんなあんたを見てる周りの人とその暖かさも好きだった。
だから、「結婚してくれないか」といわれた時、
そんな夫婦になりたいと思った。
いつも寄り掛からなくていい。
いつも頼りになんてしてくれなくていい。
疲れた時に甘いものをあげる。
目を閉じる時に流れてくる子守唄になる。
泣いて目を覚ましたら目を覆って背中を撫でる。
嬉しい時には一緒に笑う。
「ねぇママ。この写真はここでいいの?」
幼い娘は腕の中にしまっていた写真を前に出した。
白いぷくぷくとした手が掴んだのは銀色のフレーム。
風で飛んでしまわないように、石に埋め込むことが出来るそのフレームには、
毎年一枚ずつ違う写真が入れられた。
1度も娘を見ることも抱きしめる事も話すこともできなかった夫。
1度も父を見ることも抱きつく事も話すこともできなかった娘。
両方と言葉を交わし抱きしめる事ができた妻であり母ではあるが、
それ故の苦しみと悲しみと喜びと嬉しさを得た。
「そのサンダルはパパが選んだものなんだぞ」
「パパが?!」
「そう、お前の為にパパが買ったんだ」
一枚の写真には贈られたサンダルを履いた娘が写っている。
「私このサンダルが大好きなの」
あんたの顔が見える。
どこか照れたように笑っているんだろう。
「・・・2人の娘だ。よい子だろう?」
サワサワと風が頬を撫でた。