それは満ち足りていた日々のこと
なぜだか心がぽかぽかとしていて、
溢れてくるものに名前をつけられなかった時のこと
「あぁ、転んでしまうのだから、足元に気をつけなさい」
「子どもじゃない!!」
「・・・子どものためだろう」
陽気が柔らかな昼下がり、
バスケットにランチを詰めて土手までやってきた。
淡い色をしたワンピースを着て、テトテトと歩く妻は、
身重の体。
どこかに躓いてしまわないかと心配するも、
左手をそっとお腹に当てて歩いている様子は微笑ましい。
確かに宿っているその命を守ろうとしている母親の愛情。
サワサワと風が吹くたびに揺れる草たちは、
頬の横を過ぎるたびに良い香りを運んでくれた。
河原の方を覗いてみれば、親子づれだろうかキャッチボールをしていた。
「ふふっ。こいつも大きくなったら、あぁなるのかな!」
こちらに顔を向けながら、そっと草の上に敷物を広げて、
カサリと音を立てながらその上に上がった。
「私はあちらもいいな・・・」
敷物の上に持っていたバスケットを置きながら答えた。
目線で示した先には、
咲いている花を使って花冠を作っている親子がいた。
娘は出来た花冠を父親らしい男性の頭に乗せて、さながら結婚式をしているかのようだ。
娘を肩車するように抱き上げた男性の表情はとても柔らかい。
「どっちだろうな」
今度は両手をまだ膨らみ始めたばかりのお腹の上に乗せて、
新たな命に問いかけているようだ。
ここでもたくさんの思い出をつくろう
キャッチボールをして、
草むらに転げてしまったボールを夕暮れまで探したり。
ぽかぽかと暖かい日はそろって昼寝をするのもいいかも知れない。
花が咲き乱れる時には、花冠を。
妻の頭と娘の頭に。
そして新郎役には父親の私。
その度に、「だれにも渡さない」などと決心してみたり。
自転車の練習も。
この細長い一本道は転んでもフカフカとした草が守ってくれるだろう。
補助輪を外して自転車にのる我が子を見るのはどのくらい先だろう。
運動会の二人三脚の練習をするかも知れない。
学芸会の稽古も。
ケンカをしてここまで探しに走るかも知れない。
見つけたらきっと抱きしめてやろう。
妻の胎内にいるまだ見ぬ命の小さきこと。
しかし、この愛情の大きいこと。
でもそれは。
それは満ち足りていた日々のこと。
なぜだか心がぽかぽかとしていて、
溢れてくるものに名前をつけられなかった時のこと。
やってくると疑わなかった日々のこと。
次に待つ苦しみさえも片隅にすらなくて、
悲しみは波のように押し寄せてくるというのに。
男の子ならキャッチボールを。
草むらに転げていったボールを探して夕方まで。
妻に泥だらけになったことを怒られても二人で謝ろう。
女の子なら花冠を。
作ったその冠で結婚式をあげようか。
選んだその人が君を攫っていく時まで、守ると何度だって誓おう。
誕生日に買った自転車を。
補助輪を外して乗れるようになるまで、ずっと後ろを支えてあげよう。
成長のその行く末をずっとずっと見ていたい。
・・・見ていたかった。
見たかったんだ。