そう言えばずいぶんと昔にゾクリと背がすくような話を聞いた事があった。

 

 

それはとても春らしい日で、

どこか浮かれた気分とドキドキとする高揚感。

きゅっと胸を掴まれたような得も知れぬそんな感覚。

 

春は人を狂わせるのだといつかどこかで聞いた事があって、

涼を取るための怖い話にはない生暖かさの分だけ現実味は増しているのではないか。

もはや風物詩となっている夏の怖い話大会よりも、

「あぁ、思い出したんだけど」とか「実はさぁ」とか言った語り口から始まり、

何気ないくせに、いやに頭から離れず、しかも当直で深夜に1人といったこんな状況の時に、

思い出したくもない話は思い起こされる。

 

午後の光りの中でみる中庭はとても美しく清らかであるというのに、

こうして寒くは無いが暖かくも無い風と共に見る深夜の中庭は不気味としか言えない。

昼間に騒がしい場所ほど寂しさは顕著になるのだから、それも一入であろう。

 

 

「・・・あんま当直って・・・好きになれない」

 

耐え切れず一言漏らしてしまったが、答える相手などいないし、

声が聞こえたならば、さらに問題な夜更けに1人のこの状況。

 

明け方まで掛かるかも知れないと渡された書類は、

「俺って天才☆」と言えるのではないかというスピードで片付いた。

暇にはなったが、帰るわけにも行かず、こうして夜警の代わりに歩いてみたりしている。

コツコツと響く軍支給の皮製ブーツは安物の大量生産品であるのだろうが、

それでも足音だけならば、あの高給取りの上司の足音に似せることもできるのだ。

・・・・少しだけ虚しいのだけれど。

 

 

生暖かい風が正面から吹いているのに気付いたのは、15分ほど歩いていた時だった。

正面には軍の倉庫があるだけで、そこは通り抜けできる通路ではなかった。

「あれっ?」と疑問に思うのと同時に、もしかしたら「侵入者ではないか」と警戒もしてみる。

しかし、自分の警笛がそれほど強く鳴る事はないので、どこか気を抜いていることも事実で、

一歩ずつ・・・一歩ずつ。

一応とばかりに手にした短銃を構えて進めば、予想通りと言っていいのか、

閉め忘れられたのだろう1つの窓が見えた。

 

有事に繋がるのはもしかしたらこんな些細なきっかけなのかも知れないが、

とりあえず、今はこの窓を閉める事で生暖かい風の正体は消滅するだろう。

本当にもしかしたら、今起きている争いごともこんな些細な事で解決するのかも知れないが、

それを成せる人物は・・・今、いない。

 

(まぁ・・・上司に頑張ってもらいますかね)

命を懸けても付いていこうと決めた上司ならばもしかしてと思うのだから。

 

さぁ任務遂行とばかりに、鍵が下を向いたままの窓をカラカラと引き寄せる。

フワリと最後の抵抗のように風が吹き込むが、その瞬間にサラリと頬を撫ぜるものがあった。

これが銃弾であるならば、自分は簡単に生そのものを差し出さねばならない状況であったろうが、

特有の硝煙の香りではなく、甘い匂いにそれが生を脅かすものではないと知る。

 

「っ・・・・と、花びら?」

 

ヒラリと舞ったそれを追いかければ、淡い色をした花びらであることが、

薄暗い廊下に灯る照明で判別できた。

 

今は締め切られてしまった窓の外には、一本の大きな木があって、

何と言ったのかその木の名前は忘れてしまったけれど、ひどく存在感のある木であった。

春の便りであると言わんばかりのその木は、小さな花を付ける。

1つの花弁は本当に小さなものであるというのに、木全体を覆うようにして咲き乱れる姿は圧巻で、

その木1つが花のように色彩が豊かになるのだ。

 

 

まるで祝福を一心に受けたかのようなその姿は、

誰の心にも幸せを運ぶのだろうと、咥えタバコと手に持った書類の隅でそう思っていたんだ。

 

 

 

「あの下には死体があるんだよ」

 

 

 

ひどく鮮烈で、とても静かなその声を聞いてしまうまでは。

そう、それまでは。

その薄い色をした祝福の象徴は確かに存在していたのだ。

 

 

 

小さな金色と黒と赤色を纏う少女は、

執務室から離れた小部屋でいつものように本を探していて、

自分は「休憩に」と淹れたココアを持ってその部屋に来ていたのだ。

 

丈夫には見えない薄い合材の机の上に腰掛けて、

険しい道を歩む為のブーツをブラブラさせながら、手には白いカップを受け取った。

コクリと飲み下すその姿は年相応に見えるというのに、

全体のその所作はひどくアンバランスな様に見えてならない。

 

手袋を外せない右手と、重いブーツを履いた左足。

その下がもしも血の通う生身の手足であったならば、彼女はココアを飲む普通の少女でいられただろうか。

 

 

 

「なぁ・・・少尉はさっあの木の名前知ってる?」

「あの木?」

「そう・・・あの春に咲く淡い色をしたあの木」

「あの木な。あっと、名前は知んないわ」

 

そっかと小さく口にすると、金色の瞳は伏せられていた瞼を動かして、

こちらを見上げた。

少女は賢い人であったので、自分の答えが知的欲求に満足を得るものではなかったのだろう。

少女の知を考えれば自分はその足下にもいないのかも知れない。

 

 

「あれさ・・・あの木の下には死体があるらしいよ」

「死体?」

 

あまりに突飛な会話。

いつも論的な少女にしては珍しい。

 

「そう、アレはもともと白い花しか付けないらしいんだ。なのに薄い赤に染まる。

 それって血を吸い上げて栄養にしているからなんだって」

 

 

ここは軍部の中心で。

あの木が植えられたのはそう遠い昔のことではなくて。

きっとここの前の責任者がどっかの島国の研究をしてたらしいから、

そのつてで貰ったものだろうし。

軍の敷地内に死体が隠されているなんて、あまり信じられる話ではない。

手にはもう数え切れないほどの血を浴びている者が数多くいたとしても。

 

 

白い花が赤く染まっていくなんて。

 

 

 

「母さんの墓の傍の木は・・・・何色の花が咲くだろう」

 

 

 

そんなの聞いた事ないなんて。

そんなのは作り話だなんて。

こんな本まで読めるくせに、そんな話信じるななんて。

 

 

なんて、なんて言えない。

 

 

あんな幸せそうな花を見て、おまえは何を思うんだ。

あんな祝福の塊のような花を見て。

 

 

いなくなった母親に見せたいとか。

魂だけの弟に感じさせてやりたいとか。

自分が見れることへの懺悔とか。

 

 

 

春には生暖かい話が現実味を増して語られる。

周りが浮かれるそんな季節に、幸せに流されないように胸を掴むその姿。

 

ゾクリと背がすく話が。

幸せな空間ではなく、取り戻せない月日の流れを焦り怖がる事が、どれほど怖いか。

 

 

あぁ、あぁ。

ただただ。

おまえが笑えるそんな春がくればいい。

ハボエド子

日和の裏側