いかないで、いかないで

 

 

 

 

 

 

 

 

その知らせを受け取った時、不思議と涙は溢れなかった。

 

 

 

ただ、自分はどうやってその事実を知ったのかを覚えていない。

けたたましく鳴った電話からであったのか、

タイプライターで打ち出された文章だったのか(事態の早急さを考えればこれはまず有り得ないが)

バタバタと走ってきた部下から洩らされた叫びのような報告からか、

または、「落ち着いて聞いてください」と前置きされてからの報告なのか、

 

 

ただ、それを聞いた後の自分は無我夢中で、

一刻も早く彼女のもとに辿り着こうと走っていた部分的なヴィジョンは思い出せた。

目の前を流れていく景色が断片的に思い出される。

 

人はこれを走馬灯とでも呼ぶのか、

映画フィルムのように断片的なヴィジョン。

 

 

 

 

 

妻が死んだ。

それはもう呆気ないほどに簡単に。

 

 

 

 

 

彼女の進んできた道や今まで交わしてきた睦言。

娘を授かった時の喜びや満ち足りていた日々の思い出などが、

滑稽な程に簡単に。

 

「嘘だろう」と思うほどに簡単に。

 

 

 

 

買い物途中。

歩道を歩いていた彼女を車が跳ねた。

車止めを乗り越えてなお猛スピードで突っ込んできた車は軍用車だった。

 

それはもう一瞬のことだったようで、

高名な「鋼の錬金術師」であったとしても避けられる状態ではなかったらしい。

 

 

彼女の身体は空に舞い上がり、

重力のまま硬いアスファルトに叩きつけられた。

 

手にしていた買い物袋からは、

人参に玉ねぎ、子どものおやつが飛び散り、

惨劇を目の当たりにした人々にさらなる悲痛さを呼び込んだ。

 

 

 

 

通された病院ですぐに彼女と面会できた。

といっても、すでに死んでいる彼女とであったので「面会」と言っていいのか分からない。

 

 

事故死の場合、激しい遺体の損傷から「見ない方が・・・」と声を掛けられるものだが、

妻の場合、それはなかった。

 

 

自分が担当した事故でも遺族に対してそう言うことはよくあったし、

それに比例して「お願いですから会わせてください」と懇願する遺族も多かった。

 

しかし、ぐちゃぐちゃに変わり果てた家族を目にするのは相当なもので、

気を失える人はまだマシな状態だろうと思えた。

 

扉を隔てた先で遺族の悲鳴を聞いて、

泣き咽ぶ声を聞いて、

「だから言ったのに」という気分になることも多く、

「見なければいいのに」と重ねて思った。

 

 

 

けれど、今。

自分の大切な人を同じように失った今。

 

確かに「会いたい」と思うものだ。

そして、何より、「確認」したいのだと。

 

「違います。私の妻ではありません」と。

 

 

どんな可能性であったとしても、「違う」と声高に叫び、

始発電車が遅れたから毎日乗っていたはずの電車に乗り遅れたとかそんな簡単な理由で、

どうにかこの事故を回避できていたのではないかとか。

そんな希望にも似た何かに縋っているのだ。

 

 

 

しかし、「ではこちらです」と簡単に通されてしまって。

「あぁ、これは間違いないのだな」と頭の隅でそう思った。

 

ともすれば、自分が軍関係者であるから酷い遺体であっても大丈夫だと判断されたのかも知れないが、

「軍関係者」であるからこそ、その悲惨さは分かっているもので、

その事を、現場の医師もよく分かっているらしい。

 

 

キィと硬質な扉が開かれると、冷気がぶわっと溢れてきた。

薄暗い部屋の中にゆらゆらとロウソクの明かりが灯っている。

 

あぁ、彼女は神など信じていないのだから、

こんな姿でなくても一向に構わないというのに。

 

 

妻の遺体は美しかった。

損傷のない遺体に対して「そのまま目を覚ましそうだ」とよく表現するが、

まさにそのようだった。

 

目を閉じているだけの、「生きている」と思わせるそれ。

 

 

白い寝台に寝かされていた妻は、

手を胸元で組み合わせていて、静かに眠っていた。

顔に若干の擦り傷がある以外は綺麗なもので、

今までみた事故死遺体の最も綺麗なものであると思う。

 

 

サラリと髪を撫でる。

いつも戯れるように触れた。

 

そのまま頬に下って、唇を一撫で。

 

 

あぁ、なんと冷たい。

 

 

 

その冷たさは嫌になるほど現実だった。

 

 

 

 

 

「・・・・・司法解剖をする場合は」

 

「いや、結構」

 

 

 

 

 

大変恐縮しておりますという声で、医師が告げた。

それに短く答える。

 

 

事件性は皆無。

新聞の小さな記事として扱われる程度の事故。

「今日の死亡事故件数」として張り出されているうちの一件。

 

ただ、それが自分の最も大切にしていた人に降りかかったというだけのこと。

 

身体を強く打ちつけたことによるショック死だろうか。

それとも肺が潰れた?頭を打ったから?

 

 

理由など、死因などどうでもいい。

そんなことはどうでもいい。

彼女が死んだ理由を見つけずとも、彼女は死んでしまった。

理由を見つけて何が変わるわけでもない。

 

 

失くした身体を取り戻すために必死に前に進んだ人だった。

そんな彼女のどこかが失われていなくて良かったと思う。

よもや切り刻まれるなんてもっての他だ。

 

 

 

 

 

簡単な事務手続きを終わらせて、

部下の待つ司令部に帰らず、保育園に向かった。

 

1人で夕方の道を娘の保育園に向かう。

 

まだ知らせは届いていないのか、

にこやかに笑う保育士が「今日はお父さまですか?珍しいですね」と言った。

 

 

これからは毎日来ますよ。妻が死にまして。

 

そんな言葉すら頭に浮かんだが、さすがに口にするには至らなかった。

 

 

 

「パパ〜」ときゃらきゃらした声が響いて、

「ママは?」と聞いた。

 

 

 

その声には詰まるものがあったが、娘の手を引き、

保育士に軽く会釈しその場を去った。

 

 

 

「今日はシチューなんだって」

「ママそう言ってたの」

 

 

 

何も知らない可愛い娘。

もう居ない。

もういないんだよママは。

 

 

 

■□■□■□■□■

 

 

 

 

家に着くと玄関の前でアルフォンスが待っていた。

司令部から連絡を貰ったらしく、泣きはらした目をしている。

 

 

「病院へ?」

 

「はい・・・行って来ました」

 

 

そうかと告げて、「すまなかった」と加えた。

 

その言葉がどうして自分から出てきたのか理由は分からない。

アルフォンスも伏せていた顔を上げて驚いた表情をしている。

 

 

何にかは分からなかったが、彼女のたった一人の弟である彼には、

謝らなくてはならないような気がしたのだ。

 

 

 

彼女を「幸せにする」と約束した自分は。

 

 

 

アルフォンスは首を振って違いますと答えた。

「姉は幸せだった」と。

それが過去形であったことに寂しさを感じながら、娘の不思議そうな顔に苦笑して、

「家に入ろう」と鍵を回した。

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■

 

 

 

 

家に戻って初めて涙が出た。

 

 

 

そこにいるはずの人がいない。

もうどこにもいない。

 

 

 

娘がいる。

アルフォンスがいる。

 

 

 

けれど、君が

エドワードがいない。

 

 

 

知らせを受けた。

病院に急いだ。

彼女の顔に触れ、脈を取り、

確かに「死亡」を確認したというのに、

溢れなかった涙を。

 

 

 

 

もう堪えることが出来なかった。

 

 

 

 

 

リビングに明かりは灯っていない。

「おかえり」の声も、パタパタと駆け寄るスリッパの音もない。

そこにエドワードがいない。

 

 

 

 

 

訳も分からず、走っていた。

握っていた娘の手が離れ、アルフォンスが何か呼びかけた気がしたが、

もう構っていられなかった。

 

 

 

 

 

明かりのないリビング、夕食の匂いがしないキッチン。

 

洗いかけの洗濯物が籠に入っている洗面所。

 

窓が開けられたまま揺れているカーテン。

 

折りたたまれたままでタンスに仕舞われていない衣類とタオル。

 

買ったばかりの春色の口紅。

 

椅子に投げかけられている赤いエプロン。

 

 

 

 

 

いない

 

いないいない

 

 

どこにも

 

もうどこにもいない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ――――――うっぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パジャマが投げられているベッドに腕を叩きつける。

優しいシャボンの香りと、エドワードの香りがした。

 

 

「いってらっしゃい」と送り出してくれた。

娘は足下にいて、エドワードは笑っていて。

 

 

「行ってくるよ」と頬にキスをして、

いつまでたっても君は初々しいねと赤くなっているエドワードにそう言って。

 

 

まさか。

それで最後だなんて。

 

 

 

 

 

 

 

もう君に会えないなんて。

君に触れられないなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「頼む・・・・頼むから・・・・・・・・嘘だとっ・・・・・嘘だと言ってくれ!!!!!!

 

 

 

 頼むから・・・・・・・・・・・・・・エディ・・・・・・・・・・・・・・っ!!!!!」

 

 

 

 

ロイエド子