「いたっ」
静かな執務室には、自分を除いて1人だけ。
ならば先の声の主は、疑う事無く、この部屋にいるもう1人のもの。
溜まっていた書類と書庫から大量に運び込まれた文献をそれぞれ相手にしていた時間はしばらく。
ペラリペラリと意味を手繰る音は急に止まってしまった。
「どうしたんだい?」
のっそりと手元の書類を片付けて、尊大な態度でソファーに座る彼女を見つめた。
金色の髪はきれいに三編みにされていて、赤いコートがすっぽりとその姿を包んでいる。
いつもと同じ情景と言えば、それなのだが、
彼女は左手を持ち上げ、人差し指を咥えて、こちらを見上げていた。
「・・・バンソーコーくれる?」
「切ったのかい?」
「他にどう見えるわけ」
まったくもって可愛くない言い方ではあるのだが、
そんな物言いですら許せてしまうぐらいには、彼女を特別に思っているらしい。
重ねられた書類を崩してしまわないように、
豪勢な皮製の回転イスを引いて、体を持ち上げる。
医務室は別にあるものの、それなりの救急セットは常備されている。
この部屋に来てから使った記憶は特に無いが、ある事は知っていた。
数歩先の棚のガラス戸を開いて、緑の十字が書かれている木製の箱を引きずりだす。
カタンと音を立てたその箱を開けば、ツンと消毒液や古い紙の匂いがするが、
手元を探って小さな箱を探す。
「どれ・・・手を出してみなさい」
投げて渡そうかと振り向けば、まだ手を口に含んでいる彼女と目が合った。
自分でバンソーコーを貼ろうという気は無いのだろうと判断して、ソファーまで歩く。
ここは素直に手を伸ばす様子に小さく笑いそうになるのを堪えた。
「なんだよっ笑ってんじゃないよ」
「こんな小さな傷に泣きそうになっている君がおかしくてね」
でも、少しだけ安心する。
この子は、それ以上の痛みに耐えすぎていたから。
痛くて泣くのは、とても大切な事だよといつも伝えたくて、たまらなかった。
それでも自分の陳腐な言葉は、彼女にどう伝わるのだろうかと思うと言えずにいた。
差し出された掌に顔をしかめる。
手袋は外されていて、もちろん自分も外していたから、直に触れ合う手と手。
白くすべらかだったと記憶していたそれは、
なぜかガサリと肌にひっかかる。
「何でこんなに荒れているんだい?きちんと手入れをしなさい」
「そんな面倒な事できるかっ」
「痛いだろうに・・・」
人差し指の先にはプクリと赤い血の玉が出来ている。
紙で鋭く切られたその切り口は、白く線が走って、その先から血が零れてくる。
手にあるバンソーコーを貼ってやりたいが、
肌荒れが酷いので、はがす時が痛いのではないかと心配になる。
何かクリームでも塗るか、ガーゼに包帯の方が良いのではないか。
「まったく。あぁ、ささくれまで出来ているじゃないか」
左手に白くはがれそうな皮を見つけて、また顔をしかめる。
荒れた肌にささくれでは、痛いばかりではないか。
いつも気にかけていたいこの少女は、自分の居ないところに行ってしまうものだから、
こちらとしてはハラハラしているのだけれど、
そんな事は全く気にしていないとばかりに、ひょっこり顔を出す。
その度に怪我をしていないか、病気になっていないかと心配なのだけれど。
「ささくれってさ・・・なんで出来るかって聞いた事ある?」
大人しく手を触られていた金色の子猫は、
こちらの意を解していないかのように、ぽつりと言った。
「ささくれかい?」
「そう」
そう言えば、祖母だったか、誰かが自分のささくれを見て何か言っていたかも知れない。
そんな事はとっくに忘れてしまったけれど。
「・・・親不孝なんだってね。ささくれ」
あぁ、そんな話だったか。
お父さん指に出来れば、父親に。
お母さん指に出来れば、母親に。
兄さん指、姉さん指、赤ちゃん指。
あぁ、お前は、また母さんに心配かけているんだね。
「人差し指は母さん。小指はアル・・・かな?」
どこか人事のようにぽつりぽつりと。
自分の切れてしまった人差し指と、小指を見つめる。
この子はどこまで。
「あぁ、心配しているだろうね。
指先に栄養がいかないくらいに不摂生をしている娘を心配しない母親はいないよ。
また夜更かしをしたんだろう?」
クリームを延ばそうにも、右腕は吸収することのない無機質な鋼。
左腕は、守る事を許されないかのように酷使されて、ボロボロ。
泣いている少女の声と、それを心配している母親。
それでも母親の声を聞けない少女は、痛みに目を瞑りまた走り出す。
両腕で小さな左手を包む。
彼女の嫌いなミルクベースのしっとりとしたクリームを。
いつか取り戻すのだろう右腕のために、
使う事を止められないこの左手が、少しでも傷つかないで済むように。
ささくれも、肌荒れも、指先の傷さえも、
早く治れと神に祈るような所作で包み込む。