神の声など聞かなくていい
そんな遠くにいかなくていい
「うわっ寒そうですよぅ!!上着をきてくださいよハボック少尉!」
角を曲がった所でフュリー曹長に声をかけられた。
憲兵場で少々とっくみ合いのような訓練をして来たばかりなので、
こんな寒い日でもぽかぽかと体が暖かい。
しかし、このままにしておけば確実に風邪をひいてしまうだろうから、
曹長の言葉どおりに肩に掛けていた蒼い軍服に袖を通した。
「皆さん寒さには強いようで・・・僕は駄目なんですよね」
苦笑交じりに人の良い瞳が細くなった。
よいしょと書類の束を抱え直して、廊下を進みなおそうとしている。
「うん?みんなって誰か他にもいんのか?」
「あぁ、さっきエドワード君が帰ってきたんですが、
子どもだからなのか、まったく寒くなんてないよって言ってまして」
そう言う曹長の顔には暖かい笑みが浮かぶ。
頭に描いた子どもの顔でも思い出しているのだろう。
司令部には珍しい子どもと分類できる年齢の軍属が、今帰って来たのだという。
自分たちよりも高い地位にいるにも関わらず、
子ども扱いしてしまう、「甘やかしたくなる子ども」
実際には「甘やかす」事など許してはくれないのだけれど。
キィと小さな悲鳴をあげて、軍部内にある小さな書庫の扉を開ける。
半ば彼女専用となりつつあるこの書庫は、
中の書物などとっくに読みきっているだろうに、
彼女はこの場所に足を運ぶ。
「よぉ、おかえり大将」
本が日焼けしないように直接日差しの入らないこの場所は、
夏でもあまり明るくはない。
ましてや、冬が本格的にやってこようとしている今日のような日は、
暗く部屋は静かだった。
申し訳程度に備えられている小窓から、
エドワードはじっと外を見ている。
いや、睨んでいると言ったほうが適切なようなその視線。
こちらの声などまったく聞こえていないようだ。
彼女は集中すれば、外部の声を遮断してしまうらしく、
たった一人の肉親を除いてはその意識を浮上させるのに一苦労だ。
それでも、彼女の手にはお決まりの文献は持たれておらず、
ただ一心に窓の外。
冬だと言っても、まだ雪の降るには早い時期だし、
なにをそんなに見つめているのだろう。
あの琥珀色の瞳で。
あんなに暖かな色で外を覗けば、寒々しいこの天気さえも明るく晴れ渡るかも知れない。
そして、この部屋の中も。
「おぉい・・・エド」
その他大勢がいる場所で彼女を呼ぶ名称から、
呼びかえる。
この声で、浮上してくれるならとても嬉しいのに。
寒さの中にじっと動かないその姿は、
とても美しくて。
キラキラと周りの空気さえもその金色に輝く光りを移されてしまったかのよう。
「なぁ・・・知ってる?」
その色に目を奪われた時に、ぽつりと声が聞こえてきた。
それは紛れもないエドの声で。
常よりも少しだけ、静かに響いた。
「・・・何が?」
やっとこちらに返してくれた声に、足を止めていた場所から前に進む。
入り口の戸は再び小さな音を立てて閉まり、
コツコツという革靴の音が反射するように狭い書庫に響いた。
窓際に丸い簡易なイスを引き寄せて、
エドの隣に腰掛ける。
それでもまだその瞳は外を睨んだまま。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の1人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
世は人をつまずかせるから不幸だ。
つまずきは避けられない。
だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。
両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、
片手片足になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、
一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
静かな声が響いた。
それは、ともすれば泣き出してしまう一歩手前のような声で、
しかし、決して弱さなんて見せないと虚勢を張っているような声。
カタンと音がして、
お揃いの簡易なイスの上でクルリと体をよじって
こちらに向き直った。
背中の金色のしっぽがパタリと振られ、
弧を描くようにして一本の残像を残しながら、再び背中へと落ちた。
目が離せない。
言いたい言葉はきっとたくさんあるというのに。
それは声にならず、胸を焦がしていくばかり。
「・・・どっかの神様は罪への誘惑を説いたときに、言ったんだって。
何かが罪を犯しそうになるなら、捨ててしまいなさいって、
すべてを持って地獄にいくよりはその方がいいでしょうって」
カチャリ
金属の冷たい音が目の前から響く。
寒くないと言えるのは子ども。
そう、目の前にいるような子どもの言葉。
しかし、この子どもの声は逆。
子どもであろうとしているだけ。
肉体ではない冷たい銀色のその腕は、
彼女を体ごと冷やしてしまう。
決して芯から温まることの出来ないその腕は、
「子どもの体温」ではなく、
さらには「人の体温」でもない。
「寒くなんてないよ」と言わなければ、
彼女は進んでいけないのだ。
「アルも・・・俺なんて切り離してくれれば良かったのに。」
いらないなんて、あの弟が言えるはずなんてないのに。
なんて都合の良い解釈。
切り離して彼が命にあずかれるはずなんてないのに。
切り取ったその手足が罪を切り離したその結果だというのなら、
なぜ彼女は幸せになれないのか。
こんなに生にしがみつき、必死で生きているこの命を
神は罪の証とされるのか。
このままで生きる方が幸いであると言うのか。
神は結局、罪を許さない。
どんなに許しを請おうとも、
罪を犯した瞳でさえも、えぐり出してしまいなさいと。
そうしなければ、火の地獄に投げ込むと。
「なぁ・・・お前が罪を犯して、もしも命を奪われるなら、
地獄の火ではなくて、俺が一発で決めてやるから」
お前をここに引き入れた、あの焔を操る上司ではなく、
お前の罪は俺が裁いてやるよ。
そして、お前を裁いた罪で、俺はここを旅立ってやる。
あぁ、神さま。
あんたがどこから見てたって、あんたにはやらないんでよろしく。
こいつの最後の引き金は俺が引く。
そして、自分の引き金も。
この真っ直ぐな魂は、そんな言い訳じみた事ばっかり言っている
あんたには似合わない。
たとえ、完全でなくてもと欲していたとしても、
そう易々とくれてやる事はできない。
エドは静かな書庫で、「そっか」とだけ小さく答えた。