眠りなさい 眠りなさい
何も知らない無垢な眼を閉じて
何時か開くその翼を抱いて
今は 抱かれて
この声が聞こえるならば 深く眠ればいい
何が来ようと 何をしようと
守ってあげるから
愛しい貴方を守ってあげるから
必ず 守ってあげるから
「兄さん。大丈夫?」
こんな雨の夜は、いつもそうだった。
兄さんは、ベッドに入ってもなかなか眠れないようで、
眠ったとしてもうなされて、目を覚ます。
酷い悲鳴をあげて起きる時もあるし、
僕が絶えられなくて兄さんを起こす時もあった。
汗で濡れた体はすぐに冷えるし、ガタガタと振るえる体は自分より幼く映った。
何を聞いても、「大丈夫だ。」と言うに決まっているけれど、
聞かずにはいられない。
うなされて漏らす声は、
「ごめんなさい」「お母さん」「アル」だったから。
眠らない、食べないを幾日続ける気なのだろう。
でも、出来ないことも知っている。
眠れないし、食べられないのだから。
眠ったと思ってもすぐに起きてしまうし、食べたものは吐いてしまっていたから。
それでも、自分には気づかれていないと思っているから余計に悪い。
(マスタング大佐に相談しようかな・・・)
自分としては、大切な兄を他人に任すなんてしたくは無いけれど、
兄であろう、強くあろうとする兄が、頼れる人はあの人なのだろうと思う。
無能だとか煩いやつだとか文句を言うものの、
彼の言葉なら渋々にしろ従う兄を知っている。
すこし寂しくはあるけれど、
兄さんが元気になるために必要ならしょうがない。
東方司令部の門の前には憲兵が二人立っている。
ここでは軍属ではない僕が
正面から入ろうとしても咎められることが無かった。
それは、一度見れば忘れないこの鎧姿と
兄が国家錬金術師という肩書きを持っていること。
そして、東方司令部の大佐がそのことを許可していることが大きいのだろう。
東方司令部に来たのに、図書館へと行ってしまった兄の代わりに、
報告書を提出に執務室にやって来た。
代理といっても渡せば済む事だから、怒られはしないだろうけれど、
兄を心配しているだろう優しい軍人たちは、一緒に来ていない事を残念がるだろう。
「あら、アルフォンス君」
執務室の前にいると、扉が開き、中から金髪の女性が現れる。
兄さんとは違って、薄い金色だけれど、
後ろに止められたその髪は軍人でありながら女性らしさを感じさせるものだった。
「こんにちは。ホークアイ中尉。お久しぶりです。」
僕は、ガシャリと音を鳴らしながら中尉にお辞儀をした。
やはり、兄の不在を問い掛けられて、
図書館に言った旨を伝えると残念だわと言われて、中に通された。
ちょうど休憩の準備をしようとしていたらしく、中尉は給湯室へと出て行った。
「やあ、ひさしぶりだね。」
黒い大きな革張りの椅子に深く腰掛けた、黒い瞳と黒い髪の男性が声をかけてきた。
蒼い軍服は彼の黒曜石のような黒を中和しているのか、
強調しているのかは分からないが、しかし、とてもよく似合っていると思う。
酷く童顔な彼は、ここの指揮官であり、
焔の錬金術師であるロイ・マスタング大佐である。
「兄さんは、図書館に行ってしまったので、僕が報告書を提出に来ました。」
兄はどこだと訪ねられることを予想してそう言えば、
想像通りに「そうか。」といって残念そうな顔をした。
報告書は、直に手渡すようにと最初のころはそう言われていた事をふと思い出した。
最初の任務は何だっただろう。
何かの視察だっただろうか。
郵送でも良いかと旅先からの電話で尋ねれば、手渡しが常識だろうと言われたのだ。
すぐにでも次の予定地に旅立ちたかった兄は、とても嫌そうな顔をしていたっけ。
任務の地から司令部までは電車を使っても二日以上かかったように思う。
やっとついた司令部の執務室(今居るここなのだけれど)で報告書を手渡し、
パラパラと捲る音を聞きながら、不備がないかどうかその場で待たされた。
イライラとした兄をなだめながら、その時間を過ごしたけれど、
返された言葉は、「よろしい。」との簡単なもので、拍子抜けしたのも事実であった。
やっぱり郵送でいいんじゃねーか。と飛び掛りそうな兄に古書店で見つけた本を与えて、
その場をやり過ごした。
すでに予定地に発てるような電車もなく、出発はそのまま延期せざるを得ないことになった。
図書館に向かった兄を追いかけようとしていると、
大佐と中尉に兄の様子を尋ねられた。
「怒っては居ましたけど、規則みたいですし、
今は文献に夢中になってますから直ぐに忘れますよ。」
と言うと、中尉は大佐の方を少しだけ見てから、呆れたように言った。
「まったく、最初の報告書だというのに完璧だとは思わなかったなんて聞いたらどうなるか。」
「どういうことですか。」
規則だから呼び出したというのでは無いのだろうか。
「最初の報告書というのは、酷く散漫なものが多くてね。
仮に、合格点だろうと、少しきつめにやり直させることになっているのだよ。
そのために、呼び出しもしたのだが・・・」
戦闘時にはサラマンダーの練成陣が刺繍された手袋をしているその手で、
クシャリと黒い髪をかきあげた。
「十五歳で国家錬金術師の資格を取った天才だとは思っていたが、参ったよ。」
口の根を吊り上げ、してやられたとでも言いたいような顔をしている。
大佐と中尉の話によればつまり、初めての報告書を読んで
重箱の隅をつつくかのようなやり直しをさせようと呼び出したけれど、
兄の報告書は初めてでありながら、
重箱の隅にすらミスもなく注意ができなかったというのだ。
兄が認められたようで、嬉しかったけれど、
この報告書は今まで軍の書庫に篭って文献を読み漁っていた結果であって、
ただ天才という言葉では補えないものだとも思う。
規則でもないのに呼び出したことが分かれば、
兄が怒るだろう事と、中尉の何ヶ月かに一回でも会いに来て欲しいという言葉から、
このことは兄に伝えられることなく、今も報告書の手渡しは続いている。
僕に渡させることも少なくはないのだけれど。
「まったく君の兄はよほど文献が好きなようだね。
顔ぐらい見せに来てもよいだろうに。」
中尉の入れたコーヒーを片手にそういう大佐をはじめとして、
ハボック少尉やフュリー曹長までもがウンウンとうなずく。
一度、兄さんがどんな立場なのか聞いて見たいとも思うけれど、
我々のアイドルだとかそんなことを、
至極真面目に言われそうなので止めておいた方がいいだろう。
東方司令部の中で唯一大人だと思える中尉は、
兄にも休憩を勧めてくると言って、執務室から図書館に向かっていた。
兄さんについて、相談するのは少々・・・いやかなり不安もあるが、
大佐が僕たちを心配してくれているのは知っているし、頼りになることも分かっている。
(兄さん、このままじゃ本当に倒れてしまうし・・・)
「あの、大佐。兄さんのことなん バタン
言いかけた言葉は、何かが倒れる音によって消されてしまった。
何の音だろうかと、皆の視線が音のした方、分厚い扉を隔てた廊下へと集まる。
「見てきます」
そういって銃の安全装置を外しながら、
扉から一番近い位置に座っていたハボック少尉は用心深く扉を背にするように開けた。
ここは軍の施設であるから、
当然ながら危険な場所だということに今更ながら気付かされた。
しかし、奇妙な感じだ。
死の危険ではないにしても、体がザワザワする。
音がしたのは廊下から。
ここに居ないのは・・・。
「兄さん!!」
心がザワザワする。僕には感覚と呼べるものなど無いのだけれど。
心臓があるなら冷え切ったように。
なんだろう、貴方がいない。
音がする方を目指して走っていった。
執務室を出る時に、なにがあるか分からないから、残りなさいと言われたが、
冗談じゃない。
危険なら尚更向かわなくては成らないではないか。
僕のこの鎧の体は、生身の体よりずっと丈夫なのだから。
弾が飛んでくるなら弾除けになるし、瓦礫が降るならそれすら受け止められる。
いつもは煩く感じられる金属音をより響かせて、無機質な廊下を駆けていく。
「アルフォンス君!」
「中尉?!」
兄さんの所に向かったはずの、中尉が僕を呼んだ。
あぁ、やはり兄さんに何かあったのだろうか。
「兄さんに何か合ったのですか?!!」
「今、ハボック少尉が医務室に。」
「過労ですな。」
慌てて医務室に向かうと、大きな音を立てるでないと、初老の軍医に叱られた。
それでも、容態を聞くと過労だろうと教えてくれた。
やっぱりと思うと同時に、もっとはやく休ませておくべきだったと後悔した。
いつから無理をしているのだねと訊ねられたけれど、
無理なんてこの旅を始めた時からだろうし、いつからと言えるものではないと思う。
あえて言うなら、この冷たい長雨が始まった頃からと言うと、軍医は顔をしかめた。
あの大きな音は、
図書館で急に倒れこんだ兄さんが書棚も一緒に倒してしまったかららしい。
今は医務室のベッドに寝かされているけれど、
熱が出ているのか顔は赤く額には汗が浮かんでいる。
兄さんの盾に成れると思ったこの体では、兄さんの体温を測ることはできない。
もしかしたら、朝から発熱していたのだろうか。
「あの、中尉。僕いったん兄さんの着替えを取りに宿に戻るので、
兄さんをお願いできますか。」
「大佐。ここは私がついていますので、仕事にお戻りください。」
「目が覚めるまでとは言わないから、
せめて弟が帰って来るまでは居させてくれないかい。」
自分を管理する部下にそういってみると、
今回だけですよと席を外した。
仕事のできる彼女のことだ、
弟のように思っているだろうこの子に付いていたいのだろうけれど、
出来る仕事を片付けにいったのだろう。
執務室に顔を見せず図書館に行ったと聞けば、直後に倒れたと聞かされる。
こっちの身にもなって欲しいものだ。
何度か額のタオルを氷水に浸して置き換えるのだけれど、直ぐに温まってしまう。
浅く呼吸を繰り返し、額に汗を浮かばせる姿は見ていて辛い。
「・・・っさん。」
「ん?」
エドの乾いた唇が動くに気付き、言葉を聞こうと耳を近づける。
「母さん。ごめんなさい。ごめん・・・なさい。アルが・・・。ごめん。」
どんな夢を見ているかなど、聞かずとも分かる。
あの日のことか。
大切な人を失う時の記憶。
何度も失う瞬間を見る事がどんなに辛いことか、
自分には分かり過ぎるほどよく分かる。
こうやって、何日もその瞬間を見ていたというのなら、
休めというほうが無理な話だろう。
まして、彼の傍には鎧の弟がいる。
そのつもりはなくとも、
罪を見せ付けられていると感じてもしょうがない状況だろう。
罪は今もまだ彼の心に深く傷をつけている。
扉の近くでガシャリと音がする。
あぁ、弟か。
この音が弟の音だと言えば、
鋼のはきっと顔をしかめて、辛そうな顔をするのだろう。
背が小さいとか、子ども扱いだとか、
自分のことについては酷く子どもっぽく怒り出すくせに、
弟については辛そうな顔をして耐えるのだから。
全てを自分の中に抱えようとしているのか。
まったく。
「入りなさい。」
執務室の扉に比べれば幾分薄い医務室の扉の前に来ると、大佐の声がした。
またこの人は。
兄さんについていたら中尉が怒っているのではないだろうか。
声のままに部屋に入ると兄さんの傍に大佐が座っていて、
兄さんは眠っているようだ。
熱が酷い時はうなされるだけだけれど、今はどうなのだろう。
「アル・・・。ごめっ。」
あぁ、熱下がってきているんだ。
喜ぶべきことだけれど、ここは僕だけではなくて。
「いつもこうなのかい。」
眠っている兄さんを気遣っているからなのか小さい声だけれど、
気付いては欲しくなかった。
兄さんが母さんや僕に謝り続けていることなんて。
サアサアと雨の音が聞こえてくるのに気付いて、
医務室の小さな窓から外を見てみる。
ここ最近は夕方になると雷雨となることが多かった。
「大佐、雨ですよ。」
「ああ。嫌になるな。」
この大佐は、この歳で大佐になった人だし、国家錬金術師だ。
しかし、雨が苦手なのだという。
焔の銘をもつこの人は、発火布で火花を起こし、
周りの空気圧を調節することで焔を操る。
雨で湿気れば発火布が使えず、
以前部下から「無能」と呼ばれているのを見たことがある。
「兄さんもなんです。」
窓の外を見ているので、大佐の顔は見られない。
けれど、何を言っているのだと、
そう問い掛ける空気は伝わってくるので、聞こえてはいるのだろう。
「兄さんも雨が苦手なんですよ。
大佐のように錬金術には関係ありませんけど、
兄さんの機械鎧は雨になるとじくじくと傷むらしいんです。
それに・・・。
それに、母さんを練成したあの日は雨だったから。
こんな雨が続くと兄さんは食事を取れなくなるし、眠っても起きてしまう。
夢は今見ているものと変わらないのだと思います。
酷くうなされる時もあれば、一晩中、僕や母さんに謝っている時もある。」
「そうか。」
兄さんはこんな弱いところを誰にも知られたくはないのかもしれない。
けれど、僕は兄さんの支えにはなれない。
この姿は兄さんを追い詰めるものだと分かっているし、
何よりも罪の象徴でしかないのだから。
「大佐なら。大佐なら兄さんを休ましてあげられるんじゃないかって思うんです。」
「・・・それは、私が人殺しだからかね。」
低いその声に、窓から大佐の方へと向きを変える。
黒いその瞳は何を思っているのだろうか。
ただ、人殺しをしたからとか、そんな理由ではなくて、
この人は大人であろうとする兄を子どもに戻してくれるような気がするのだ。
甘えとかそんな関係は決して許しはしないくせに、
子どもである場所を許してくれるような気がするのだ。
そして、兄に必要なのはそんな居場所だと思う。
僕の隣で虚勢を張って、ひたすらに前だけを睨み続けるばかりではなくて。
「僕は、兄さんを追い詰めるだけだから。」
「俺はあいつを追い詰めてるだけなんだ。」
アルフォンスの言葉に、いつだったか鋼のが言った言葉が重なった。
軍の任務を伝えている時に、彼が言った言葉だったように思う。
弟はいなくて、彼が一人で指示を受けていた。
弟は連れてきていないのかと問うと、あまり軍には関わらせたくないのだと答えた。
「あいつには、アルには辛くない生き方をして欲しかった。
でも、それに引きずり込んだのは俺で、そのことを何も言わない。
ずっと追い詰めているんだよ。俺はあいつを。」
一人続く独白のようなその想いを聞くことで、
深い悲しみが少し軽くなることを願いはしたが、
おまえは悪くはないのだとのそんな言葉は求めていないのだと感じさせられた。
ただ言いたいのだろう。
「昔からそうなんだ。あいつ、辛いのに何も言わないんだ。
母さんが死んだ時も、鎧の体になってからも。
辛いのはいつだってアルなのに、いつも俺の事ばかり心配して。」
彼の金色の瞳は、琥珀だとか、蜂蜜を溶かし込んだようなきれいな色をしている。
その瞳が悲しみに揺れている。
しかし、涙を流すことはないのだと知っている。
どんなに辛くとも彼はその涙を流す事はない。
唇を噛んで、掌をぎゅっと握って耐えるその姿を自分は幾度となく見てきたのだから。
彼の決意を知っている。
だからこそ任務を言い渡せるのだろう。
こんな少年に、まだ親の庇護を受けて暮らして当然の彼に、
少佐相当の地位と権力を与えて軍に縛り付けることなど
知らなければできようはずがない。
「あっ・・・。」
彼が耐えるように見ていた執務室の絨毯から、ぱっと顔をあげた。
「子守唄。歌ったんだ。」
呟くようにしてこぼされたその声の真意が分からない。
顎に手を当てるその姿は、難しい文献を読み解いていく時のその姿で、
彼が記憶の一片を紐解いていっているのだろうことが分かる。
「アルフォンス君に歌ってあげたのかい?その、子守唄を。」
「ああ、母さんが死んだ時、あいつ怖くて眠れないって・・・。
俺、子守唄を歌ってやったんだ。
そうしたら、あいつがすぐに眠るもんだから嬉しくて、
・・・寝れなかったら兄ちゃんが歌ぐらい歌ってやるからなとか思ったんだ。
何も言わないアルが言ってくれたのが嬉しくて、
それを俺が解決できたのが嬉しかったんだと思う。」
うんそうだ。そんなこともあったと、彼は頷いている。
「今だって、俺の歌で安心して眠ることができればいいんだけどな。」
苦そうに笑う彼を思いだした。
まったく似たもの兄弟だなどと改めて理解してしまったではないか。
互いに心配しあって、それを互いに隠しあっているのだから始末が悪い。
「アルフォンス君、子守唄を歌えるかね。」
懐かしい母親の旋律と故郷で育まれたその音域で
優しい眠りに誘うその唄を
「子守唄・・・ですか?」
「歌えるかね?」
すうっと息を吸い込むようにして、
無骨な鎧から流れるにしては不釣合いな高い音域でその音を紡ぐ。
眠りなさい 眠りなさい
何も知らない無垢な眼を閉じて
何時か開くその翼を抱いて
今は 抱かれて
この声が聞こえるならば 深く眠ればいい
何が来ようと 何をしようと
守ってあげるから
愛しい貴方を守ってあげるから
必ず 守ってあげるから
傷を持つものだけが、
傷を持つものを癒せるのではないよ。
理解するだけでは
救うことなどできはしないよ。
君たちには時間がある。
私が決して埋めることなど出来はしない
時間という共有空間。
それだけは決して嘘でも誤解でも偽りでもない。
君たちだけの
許された持ち物だろう。
子守唄