この風が貴方を運んでくれればいいのに
消えてしまったと聞いたのは少し前。
まだ風は冷たくて、緑が揺れるのが綺麗だった春先の日だった。
泣きそうになる目頭は熱くて、奥歯はきゅっと痛んだ。
なんでなんでなんで
そればっかりで、嘘でしょう?と思えるまでに随分と時間がかかってしまった。
まるで溢れ出た水がゆっくりと指の先を零れ落ちて、そのまま雫が消えてしまうように、
ひどくゆっくりと、貴方は消えてしまった。
誰も知る者がいないあの東の果ての戦場で。
たった一人で。
「行ってくるよ」
夜通し「泣かないで」と頭を撫で続けた彼は、困った顔をしてそう言った。
自分が軍属と呼ばれる地位を捨て、すでに3年の月日が経ち、
国も随分と安定してきたと思っていた矢先の事だった。
まるで最後の抵抗と言わんばかりに、新政府に対する反乱が起こり。
それに対する政府側の判断はあまりに呆気なく、そして周りを落胆させるには充分だった。
「国家錬金術師の投入」
午後の号外として街で配られた紙面にその文面を見つけたとき、堪らず身体は振るえ、
内臓が沸き立つような恐怖が競り上がってきた。
夫が戦場に行くかもしれない。
その事を自分は何度想像しただろう。
自分が軍属であったときも、同じく想像したそれだけれど、
夫が戦場に行くというその事のほうが、どれほど自分を恐怖に立たせることだろうか。
地面はぐにゃりとまるで溶けかけのチーズのようで。
空は万華鏡のようにクルクルと光りを回している。
どこをどう家に着いたのか分からないまま、手の中にはくしゃくしゃに成ってしまった号外の紙面。
買い物を終えたはずの籠はどこかに投げてしまったようだ。
周りの空気はどこまでも冷たいというのに、はぁはぁと途切れる息と頬を伝う汗が鬱陶しい。
「ろっ・・・ロイ・・・っ」
玄関前の塀の向こうに、愛しい人の色と気配を感じて、
込み上げる涙が思い出したように溢れてきた。
その声と音に気付いたのか、背を向けていた夫はすぐにこちらに向きかえり、
その広い腕の中に、まるで何かから奪い取るかのように抱き込んだ。
強く強く、何モノからも離れないように、貴方が抱いてくれていればいいのに。
「こっこれ・・・・あっ・・・・」
くしゃりと鳴る紙の音に、夫の腕はさらに強くなる。
貴方が「こんなものは嘘だよ、戦争など始まりはしないよ」と優しく囁いてくれたなら、
暖かい夕食を囲んで、一緒にお風呂に入って、柔らかいシーツの中で眠るのに。
貴方は、何も言わないままに、その腕を強くするものだから、
こんな時にさえ、嘘なんてついてくれないのだから。
「必ず、帰ってくるよ・・・・君たちが待つこの家に、必ずだ・・・」
泣き止まない自分の横で、夫はそれを繰り返した。
夫によって暖められたスープは喉を通らず、お湯を使っても、身体はドンドンと冷えていくようだ。
シーツに横になっても、離れていかないようにと、その腕にしがみ付くしかできない。
ゆっくりと頭を愛しむように撫でてくれるこの腕が、無くなってしまうなら。
「どうか身体に気をつけて・・・君はいつも無茶をするから心配だ」
どうしてそんな言葉ばかり。
貴方の胸の中はどれほどの恐怖に覆われているのだろうと思うのに、
残す私の心配ばかりして。
これではまるで本当に最後の様じゃない・・・。
貴方が・・・・戦場へ行くというのに。
どんな心配も、どんな不安も「帰ってきて」としか伝えることのできない私の、
最大の願い。
帰ってきて、私たちのところに。
「お父さんに・・・会いたかったね・・・・。
ごめんね・・・ごめんね・・・・ごめんっ・・・・」
膨らみかけたお腹はきっと貴方を笑顔にさせるのに。
この子の名前も知らないままに、この子の色もこの子の声も何もかも。
何も知らないままで、貴方は消えてしまうというの?
そんな悲しいことがこの世にあっていいのだろうか。
誰が奪う?私の幸せを。
この子を父親に抱かせてあげたい。
この子に父親を覚えていて欲しい。
この子と父親一緒に笑って欲しい。
なんで、そんなこと。
なんで・・・なんでよ。
あの人はきっと泣いていた、この世を離れるその瞬間に。
手を宙に伸ばし、きっと名前を呼んだに違いない。
まだ名を持たないこの子の名前を。
上手く発する事のできない最後の声で。
この風が貴方を運んでくれればいいのに。
何も残らなかったという東の果ての戦場から、貴方を運んでくれればいい。
膨らんだお腹は臨月前。
貴方がいなくなった冬を越えて、命が芽吹くその季節に新たな命が誕生します。
ねぇ、ロイ・・・・もうすぐ貴方と私の子どもが生まれます。