【六花の明かり】 「思考的問題 18」
「・・・はぁ」
ズルズルと壁に背を預ける。
薄暗い廊下には、非常灯が足下を照らし、窓からは雪明かりが差し込んだ。
街灯が照らしているのか、偽りの明るさ。
それは自分が望んだ明かりではない。
あの、零れんばかりの琥珀の光り。
肩を震わせ、声を押し殺し、泣かせてしまった。
あんなに愛しい人であるのに。
あれほど守ると誓った相手であるのに。
あんな痛々しい様子をさせてしまっているのは、まぎれなく自分。
自分の愚かな行動と思考のせい。
信じて欲しいと望みながら、信じていなかったのは自分。
あの暖かな微笑を崩してしまった、愚かな自分。
言うべきではなかった。
まして、今。
それは自分の隠してきた恐れの事ではなく。
子どもの事。
妻は気付いていなかった。
それをこのタイミングで言うべきではなかった。
まるで、子どもを引き合いに出して離れて行かないでと言った様なもの。
大切のものを質に取った様なこのタイミング。
言ってしまった後に、自分の発言に驚愕した。
泣く妻の、震える声に気が付いた。
彼女は。
母・子・父
その全てに常ならぬ反応をする。その事を知っていたのに。
幼い頃の思い出、喜び、暖かい記憶。
痛み、罪、歩いてきた道の全て。
それらは、複雑な基線を描いて、絡み合って。
彼女を少なからず縛ってしまっている。
言うべきではなかった。
この2人のすれ違いに、子どもを関わらすべきではなかった。
それではまるで。
子どもが居るから一緒にいてくれと。
そんな曖昧な関係が欲しい訳ではないのに。
「馬鹿か私は・・・」
今までの女性とは違う。
当たり前だ、心から愛しているのは彼女だけなのだから。
【動けない】 「思考的問題 19」
回診のために部屋を訪れる。
緊急入院となった患者のことが気になる。
薄暗い廊下も、何度となく通っているからか迷い無く進む事が出来る。
申し訳程度の足下の明かりは、それでも入院患者のためで、
明るすぎても安眠の妨害と成りかねないので、難しいところだ。
目指す病室の前に見慣れない塊を見つける。
(おや?)
首を傾げてみるが、それを見て解決を口にしてくれる者など居ない。
徐々に近づけば、大型犬がお座りをしているくらいの大きさであることが分かる。
ゴソリと動いたそれに、仰け反る程ではないにしろ驚いた。
窓から明かりが漏れて、それがあの青年であることが分かった。
・・・青年と言えば間違いだろうか。
酷く童顔ではあるのかも知れない、国軍少将の地位にいるのだから
それなりの歳であるのだろう。
(・・・大型犬に見えたのは、間違えじゃなかったかも)
まるで叱られた後の犬のように、しゅんとそこに座っている。
見たときよりも髪が乱れているのは、なぜだろう。
それでも、飼い主の傍を離れられないと、
その扉を敵から守るようにしてじっと見つめている。
「寒くは・・・ありませんか」
「不思議と・・・寒くは無いのです。震えは止まりませんが」
ギュッと蒼い軍服を掴むようにして震えを耐えるようにしている。
何が彼に恐怖を与えているのかは明白だ。
扉に拒絶されたような様子でそれをじっと見ている。
こちらと話しながらも、目を反らす様子はまるで無い。
「奥様が心配ですか?」
「当然です・・・でなくて、私がここにいる理由はないでしょう?」
この夫婦は酷くアンバランスだ。
会った時もどこか違和感を感じた。
「どうして中に入らないのですか?」
「・・・・・妻が泣いているからです。泣かせたのは私だ」
横顔がギュッと痛みに揺れる。
薄暗い廊下でもその表情が分かってしまう。
外は雪明り。
「ここには命と戦っている人がたくさんいます。貴方はその事が分かりますか?」
「・・・私とて、命を相手にする事は、今まで何度だってあった」
「では、貴方は、何故ここにいるのですか?」
「ずっと手を握っていた人がいます。名前を呼び続けた人もいます。
何も言わず傍にいた人もいます。
もちろん、何が最良かはそれぞれの考えで良いのだと思います。
貴方は・・・何をしたいのですか?」
【ある一日の予想】 「思考的問題 20」
お腹をそっと撫でる。
ここに命が宿っていると。彼は言った。
まだ凹凸もなくて、もちろん胎動も感じない。
ずっとずっと求め続けた知識は、人体の構造を理解するには十分なもので、
理解する事はできても、まだ、信じられない。
命を求めた自分は、ここに命を宿している。
ゾクリ。背中を這い上がる恐怖。
そうだ。命とはこんなに簡単に手に入るものだったか?
そうだっただろうか。
彼の言葉は本心なのだろうか。
恐い。恐い。恐い。
子どもは彼の子。
そんな事は分かっている。だって私は彼にしか体を許してはいない。
宿るはずも無いのだ、彼以外の子どもなど。
だけど。
だけれど、私以外に彼の子を宿す人はいるかも知れない。
そうしたら、彼は言うのだろうか。
「一緒に子どもを育てよう」と。
優しくその暖かな手で、膨らむだろう腹を撫でながら。
女性は子どもを宿す特権を得た性。
では男性は?
貴方を信じられない。
そんな純粋な心など、もう私には残っていない。
だって。
この子どもで、貴方を繋ぎとめられるかも知れないと。
私、思ってしまったもの。
今日。
明日。
貴方と過ごすその一瞬に。
そう思う女性が現れたらどうすればいい?
紅い口を弓のように細めて、
甘い甘い花の匂いを漂わせ、
玄関のベルを鳴らすの。
ここに貴方の子どもが宿りましたと。
膨らむ腹に手を添えて、ゆっくりと微笑むのだ。
そんなところは見たくない。
【氷上爆走】 「思考的問題 21」
走る。
待合室で眠りかけていたハボックの襟を掴んで。
深夜に凍りかけた地面は酷く滑りやすい。
玄関で車の到着をただ待っているだけの地位を得たというのに、
部下と共に駐車場まで走る。
『貴方は何をしたいのですか』
自分は何をしたいのか。
彼女の為に。
自分は何をしなければならないのか。
愛しい妻の為に。
今まで、自分がしなかった事。
今を逃すわけにはいかない。
これを逃して。
一度手に入れたと思った愛しい存在までも逃してしまうのか。
慌しく流れていく車外の景色。
あの状態で妻から離れていいのか?
ギュっと胸が掴まれる。
息が止まったかのように、ひゅと喉から音が漏れる。
蒼い軍服の胸を掴む。
今。
貴女の髪の香りに頭を埋めるよりも。
貴女の手を握り続けるよりも。
貴女の傍に付き添っているよりも。
胸の痛みを。
この胸にある痛みよりも、激しいだろう痛みを。
それを取り除きたい。
その為に、今は離れる。
その事をどうか許して。
車内に取り付けられた電話を取り、繋がった軍部から駅に繋げてもらう。
それは緊急回線だけれど、権力は使える時に使う物。
「ノーランド駅長か?」
『はっはい。そうですが』
「これから中央に向かう。電車を用意してくれ」
『へっ?・・・あのもう一度』
「時間が無い!すぐに中央行き手配を頼む」
「ちょっ・・・准将?!今から帰るんスか!!!」
滑りやすい路面にハンドルを取られまいと必死なハボックは、
それでも驚きのあまりに若干の揺れを引き起こしながら、
背後に座っている上官に物申す。
『朝一番ですと・・・6時発が』
「今すぐだ!」
チンと音が短く鳴って、電話は切られた。
【会いたい人】 「思考的問題 22」
熱が上がっているから、水分を取らないとね。
その声をぼんやりとする瞳で見上げた先に
求める色はなかった。
込み上げる涙を熱のせいにして、火照った頬に溢した。
上手く飲み込む事が出来ない為に、
腕に針を刺される。
「あっあかちゃ・・・ん」
「大丈夫よ。薬物ではないから・・・大丈夫よ」
やんわりと頭を撫でられる。
滲んだ瞳に映ったのは栗色の緩やかなウエーブ。
その色は。
「かさん・・・おかあさん」
呼びかけて、その声が酷くかすれているのに気付く。
こんな声は届かないかも知れない。
でも。
「結婚・・・したんだ。大好きな人がいた・・・いるんだ」
「えぇ」
聞こえた優しい声に、零れる涙が増していく。
喉がヒリヒリして、目頭は熱くて。
でも、声を届けたい。
「でも。だめっ駄目で・・・こどもも」
「どうして?」
「産んでも・・・この子は幸せになれない」
そう。父親を信じられない母親と、
いつ離れていくかも知れないと感じながら生きていくなんて。
きっと幸せになれるはずがない。
ごめんねってお腹を撫でていると、
温かく優しい手が、そっと手に重なる。
「貴女を愛したから。私は幸せだったわ。
ねぇ、エド?貴女はその子を愛せないのかしら。
一緒に幸せになることを恐れないで・・・ね」
「・・・かあさん?」
「大好きよ。娘の・・・子どもの幸せを願わない親はいないわ」
瞬きを三回。
涙を動き難い腕で拭う。
「あら?気分はどうですか」
「えっ・・・あの。」
脈を取りながら、額に手を当てて熱をはかる。
「マスタングさん?」
「今まで・・・傍に?
「はい。よく眠ってらっしゃいましたけどね」
あぁ。母さん。
いつまでも思うことは。
産んでもいいのかな?私はこの子を・・・。
来てくれたの?
私に会いに来てくれたの?
熱ではない涙が流れる。
腕はずっと温かいままで。
「愛する事を恐れずに。幸せになる事を恐れずに」
もう一度歩いてもいいのかな?
ロイエド子