どれが間違いだったなんて。

今更どう考えても何もかも遅かった。

 

もう遅いとあの日思った、あの時に。

少しの勇気と真実を握って動けばよかった。

 

けれど、それすら、今更で。

 

 

この声が届けばいいのに。

何度かなんて思い出せないくらいに何度も。

何度もいい続けたこの声は。

 

胸を痛める事しかできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ もう 息 ができない 。 ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

くぐぅ。

あぁ、今日も俺は元気だ。

体内時計はしっかりと針を進めて、そうして12時を告げる。

カチカチと音を立てる柱時計は、もう半周ほどその時刻に足らない。

 

・・・・まぁいいか。

 

 

キリが付いたことにした書類のケースを、

乱雑に置かれたファイルの上に放り投げると、

回転椅子を引くために、軍支給の皮のブーツに少しだけ力を入れて床を弾いた。

カラリと音を立てて、椅子のコマは周り素直に自分と机の間に距離が生まれる。

 

 

昼食を共に取ろうと約束していた相手は、

きっと今がどのくらいの時間かだなんて、忘れてしまっている事だろう。

 

 

今日は食堂のメニューに彼女の好きなホワイトシチューが加えられていたから、

きっと喜んでくれるだろう。

外に食べにいってもいいのだが、それは今度のディナーに取っておこう。

 

 

「今日は貴重文献の書庫・・・か」

 

 

ここ東方司令部には、それなりの蔵書を持つ書庫がある。

それは、実質ここの指揮権を持っている我らが上司が国家錬金術師の資格を有していることも

原因のひとつなのだが、根無し草の最年少国家錬金術師が買い占めた書物も何故かここに、

保管されていることも一因である。

 

そうして、彼らが求めた本が書庫と貴重文献用の書庫に配される。

 

貴重文献とは何も錬金術書だけではなく、軍の機密に関わる事も多くあるため、

司令部責任者、佐官クラスの閲覧許可が必要となる。

自分がこれから会おうとしている思い人兼只今、お試し期間中の恋人は、

一応、少佐程度の権限を持たされてはいるが、

それでも軍に正式に組されているわけではないので、軍内部の物に許可書を貰う必要があった。

 

そうして、ここ東方司令部の許可書発行人は、

ロイ・マスタングであり、その貴重文献の閲覧は、

たとえ軍人であり、司令官の長年の部下である自分であっても、

許可なく立ち入ることを許されてはいなかった。

 

 

 

日差しから遮る様にして建てられている建物の、

中二階にその部屋はある。

あまり大きなものではないにしても、その内部は複雑で、

蔵書をたとえ探して来いと命じられても、自分は迷う自信がもてそうだ。

 

 

鉄の頑丈なその扉は、

内部に在するものがいるために、鍵は掛かっていない。

そもそも、この書庫の鍵は1つしかないので、

貸し出しの際に彼女が持って行き、そのまま開けているのだろう。

 

少し無用心なような気がするだろうが、

鍵を内側から掛けられてしまえば、どうしようもなくなってしまうので、

それは規則的にそうされている行為であった。

 

 

重厚な鉄をギィと動かして、やっと内部に入り込む。

薄い明かりは読書には少々適さない明るさであるが、内部にある貴重な文献の劣化を防ぐ為には、

ギリギリの光量であった。

 

そこから一段高い位置に木製の床がひいてある。

埃防止のために、土足が禁じられているために、見慣れた皮のブーツがそこにあった。

慌てて駆け上がったからなのか、キレイに並んでいないその様子に、

ワタワタとしていたその様がぱっと浮かんでしまい、そっと口の端を緩める。

 

 

「おぉい、エドぉ。昼飯食いに行くぞぉ〜」

 

間延びした声で呼びかけるも、中からの反応はない。

 

「ったく。また熱中して読んでるんスかねぇ・・・・」

 

実は、こんな経験は初めてではない。

いつも関心を通り過ぎた集中力を見せてくれる恋人は、

その延長のように、すっかり寝食すらも忘れてしまう。

だからこうして、お昼のお誘いに来ているのだけれど。

 

 

 

「あぁ・・・俺は入れないしなぁ・・・って!!!おい・・・・」

 

横を向いたままの姿勢で固まった。

 

ビックリした。

在りえないと思った。

 

 

遠くにいるとばかりに声を掛けた相手は、

自分のすぐ傍。

入り口横の本棚の前に、丸い椅子を持ち出して、

そこに腰掛、一冊の本を手にしていた。

 

 

どうするかなぁと周りを見渡したその時に、

彼女の存在に気が付いた。

 

 

・・・・・・・まったく。

 

 

仮にも恋人が、お昼のお誘いのために、

こうして、間近で叫んでいるというのに。

当の本人は、まったく気付かないで、今だに手にした文献を

パラリパラリと繰っている。

 

 

「おいっ!エドぉ〜!!!メシにするぞ!!!」

 

 

ペラリ・・・パラリ。

ペラリ・・・パラリ。

 

 

ってか、本当に聞こえていない。

・・・・・・もう少し待つか。

 

 

ったく、惚れた弱みなのかなんなのか。

ちっとも苦にならない辺りが情けない。

 

 

あぁ。

そんなに難しそうな顔して。

でも、まつ毛長いなぁ・・・。肌白いし。

ちゃんとメシ食ってんのかなぁ。

ってか、本当に可愛いんだけど。

マジに可愛い。

顔を見ているだけで満たされるってヤツですか。

末期ですよ。俺ってば。

 

 

 

綺麗だと思う。

まさかこんなに年の離れた相手に、

そんな事を思うなんて考えてもみなかったけれど。

もちろん整った顔立ちであることも分かっているが、

それよりも内面に魅せられている部分が大きい。

 

 

ただ一直線の人。

真っ白い存在。

その実、泥にまみれているくせに、光りを失ったりしない。

なんて鮮烈な生き方をしているのだろう。

 

 

硬い鉄の扉に背を預けて、

しばらくその様子を見つめる。

静かに繰られるページに書いてあることなんて、

逆立ちしたって理解できない内容なんだろう。

それをただ静かに。

 

 

 

 

ピクリ。

 

 

うん?

瞳が揺れた。

 

長い金色のまつ毛が、何度か瞬き。

文献を睨んでいた同色の瞳が意思を持つのを、

俺は黙って見ていた。

 

 

目が話せなかった。

 

ゾクリと背中を駆けるものがあったけれど、

動けなかった。

 

一言も発することさえ。

 

そして、目の前で、彼女はこう呟いた。

 

 

 

 

「・・・・・大佐?」

 

と。

 

 

 

 

「大佐」と彼女が確かに呟いたあとで、

遠く、自分と彼女を呼ぶ上司の声に、自分も気が付いた。

 

 

問題はそんな事じゃない。

上司がどんな内容で自分を呼んでいるかなんて、

そんな事じゃない。

「昼食はとったのか?」とかそんな他愛のないことだったなんて。

 

有事の時のような威圧の声でもない。

そんな小さな声を。

 

 

 

「あれっ?少尉?・・・今、大佐の声がしたかと・・・」

 

手の中の文献をパタンと閉じた音が、やけに大きく感じる。

さっきまで見つめていた、自分の恋人が。

どうしたの?と近づいて首を傾げる。

 

 

 

手が震えるのを押さえるので精一杯だった。

 

 

 

こんな傍で、大声で。

俺は、おまえを呼んだんだよ。エド。

 

約束だってした。

昼を一緒に食べようななんて、些細なことだけれど。

 

軋む音のする鉄の扉だって開いただろう。

光量だって俺が来て、増したはずだ。

 

 

 

 

なんで。

 

 

 

あんな遠くで。

俺すら気付かないような声だったはずの、あの声に。

 

集中していたはずのおまえが。

 

どうして気付けるのか。

 

 

 

それが、あの男だからか。

まだ。

おまえの心にはあいつが居るのか?

 

 

 

 

「少尉?」

 

不安げに見上げる顔に、ズキンと胸が軋む。

ぐっと胃の中が小さくなるような感じだ。

 

腕の震えを押さえるために、一度強く手を握る。

あぁ、こんなんじゃ、銃の照準だって合いはしないよ。

軍人が情けない。

 

 

 

「ん・・・何でもない。さっメシにしようぜ」

 

クシャリと金色の髪を撫でてやる。

細い髪は抵抗なく、力を込めていた為に白くなった腕を受け入れた。

フワリといい香りがするのに、

心はざわついたままだ。

ロイエド子