時計の針は少し前に巻き戻る
流れを止めることの出来ない渦の中で
人はいつも後悔ばかり
「あの時」 「あの言葉」
すれ違いと思いの相違は、意外な結果を連れてくる
人が望むと望まざると関わり無く
■ 流れたモノは 戻らない ■
「エド・・・・?」
午前の勤務が始まろうという時間。
いつものように遅刻間じかに軍の厳つい門を潜る。
門番は見知った憲兵で、少尉の地位にある自分に気付き、
敬礼とともに「遅刻しますよ」と有り難くない進言をした。
「うるせぇよ」と煙草を咥えたままで、答えながら、
軽く手をあげ挨拶をすれば、門番は恭しく敬礼を再度してみせた。
残念ながら今日の予定ぐらい自分の頭には入っていて、
それが「副官殿の不在」であるので、この遅刻はあまり焦らなくてもいいのだ。
時間に正確な彼女はすでに朝一番の会議の為にこの司令部内にいるだろうが、
自分の出勤時間には必ず会議室にいるため、執務室で会うことなどありえない。
あの無駄に頭の回る上司も、きっと同じ事を考えているに違いなく、
遅刻と言わないまでも、少し遅れてくるか、どこか気の抜けた雰囲気を持っているに決まっている。
今日は銃の危険に晒されずに一日が送れるなぁなどと、
ぼんやり考えていつもは走って駆け抜ける通路を歩いていた。
しばらくしてから、見慣れたはずの風景にヒョコリと揺れるアンテナを見つけた。
「あれは・・・・エド?」
頑丈な造りをしている石の壁に、
フラリと見えた紅いコート。
それは見覚えのある恋人のコートで、その先の金色の髪も見慣れたもの。
「あいつ・・・・また体調崩してんのか?」
明らかにのそりとした体の動きにため息が漏れる。
常々、彼女は子猫のようだと思うぐらいに、軽やかに動く。
毛糸球とじゃれ遊ぶように、コロコロと転がって金色のしっぽを揺らす。
それなのに、多くは寝不足であったり、食事を抜いていたりが原因で、
体が不調を訴えていることがあるのだ。
子どもが陥る体調不良の原因としては、いささか問題なモノばかりである。
昨日はここ(司令部)には来ていなかったと思うのだが、
もしかしたら、書庫で寝食忘れて文献を漁っていたのかも知れない。
・・・・・よくある話だ。
一生懸命なところは限りなく可愛らしいのだが、
それで体を悪くするのは褒められた事ではない。
それが、何の為に必死なのかを知っているので、強く言うことはできないが、
しばらく仮眠室で休憩させようと決めて声を掛ける。
「エド・・・お前さっ」
「あっ・・・少尉」
後ろから声を掛けると、すぐにこちらを振り向いた。
紅いコートの裾がヒラリと弧を描き、まるでスカートの裾のように揺れた。
そんな様子に思わずドキリとしてしまうが、
上擦ったエドの声が現実に引き戻す。
なんだよお前。
その顔色の悪さ。
悪戯が見つかった子どものような顔。
そして、叱られるのが分かって泣き出す一歩手前のような顔。
・・・・・・今日はいい日だったんだけどなぁ。
もしかしたら、最終通告を受ける日になってしまうかも知れません。
「おっ俺・・・・言いたい事があるんだっ!
っ!!俺っ・・・少尉に謝りたくて・・・・・・・・・」
意を決したと分かる必死な声。
胸が掻き毟られるかのようだ。
ごめんな。
お前にそんな声出させるために、告白した訳でなくて。
追い詰めたかった訳でなくて。
ただ笑った顔が見たくて。
もし、それが自分に向けられたものだったらと思って。
謝るのは俺の方だ。
「誰が心にいてもいい」なんて、言葉で言ったところで、
俺はそれを許せてなんていなかった。
だから、お前はいつも辛そうな顔をしていたんだと思う。
「・・・・分かった。
でも、今は取り合えず休め・・・なっ?
それから聞くから。お前・・・顔色酷いぞ?」
肩に手を置いて、休むように促すも、
少女は首を振り続ける。
その肩が小さく震えているのに気が付いて、
奥歯をかみ締めた。
「いいっ!今・・・聞いて欲しいんだ。
俺・・・・」
「あらっ鋼の錬金術師さんじゃないかしら?」
エドが口を開いた瞬間に、とても甘ったるい声が響いた。
通りの向こう側から響いたそれは、振り返らずとも分かる声で。
正直、こんな所で会いたくなかった。
しかし、彼女は上司の妻で。
その彼女に不敬を働くことは許されない。
何より肩に置いた手の下で、ビクリと震えた少女が気になったが、
背にかばうようにして、声の方向に振り返る。
一目で上質と分かる紺色のスカートと、
白いブラウスには大きなコサージュが飾られ、
深い帽子にはシルクのリボンが巻かれている。
気品のある准将婦人の顔が「あらまぁ」とばかりにこちらを見ている。
「お取り込み中でしたかしら」
まるで棒読み。
分かっていて声を掛けたんだろうが。
薄く笑う准将婦人の声に、後ろの少女が息を呑んだ。
それは、男の気配を感じたからかも知れない。
「待たせたね・・・・っと・・・ハボック?」
カツカツと靴の音を響かせたのは、
黒い髪に黒い瞳。
蒼い軍服には黒いコートを着込んでいる。
この中で、誰よりも付き合いの長い上司。
ロイ・マスタング准将が、廊下の端から姿を現した。
「お前どうしてここにいる」と目線で問われるが、
それをあんたに言われる筋合いはないと思う。
実際には、上司であるのだから、筋合いは十分なはずであるが。
婦人と一緒である上司に、
反発してしまうのは、どうしようもない。
「後ろにいるのは・・・・鋼のかい?」
あぁ気付かずに、その女とどこでも好きな所に行けばいいのに。
この子はいま、あんたに会えるような精神状態ではない。
ましてや、その女と一緒にいるあんたとだなんて。
すぅと一息。
背中の後ろでエドが息を吐いたのが聞こえた。
・・・・・また仮面を被らなければならないのか。
優しすぎるんだお前は。
「なんだよ、准将。
奥さんまで軍に連れてきて・・・・仕事またサボってるんだろ?」
不適な笑みを貼り付けて、
俺の背中から、ヒョコリと頭だけをエドは出して上司に話しかけた。
左手でギュッと軍服を掴んでいる手は、
カタカタと震えている。
「・・・・君こそ。ハボックとこんな所で話をして。
報告書の提出はすでに受けたはずだが?
恋人同士の逢瀬とは聞こえがいいが、ハボック、お前は仕事中だろう?
こんな所にいる暇があるのなら、すぐに執務室に向かいたまえ」
眉をひそめたその顔に、
エドワードから離れろとの威圧がくみ取れる。
けれど、それを受け取れないエドは、
上司の低い声に、握った手をより強くする。
こいつは俺に謝りたいと言った。
きっと「恋人」と言われる関係の終始を伝えるために。
俺の勝手な思いのために、
いろいろ考えて、悩んで、そうして下した結論だったろうに。
目の前の男はそんな事も知らずに。
ただ、嫉妬にも似た感情をこの少女に向けて突きつけている。
あんたの横にいるのは誰だ?
あんたが選んだという、自慢の妻だろう?
そんな所から、こちらを睨んでどうなるというのか。
どうでもいいから。ここから早く立ち去ってくれ。
この握り締めた手を早く解いてやりたいんだ。
きっと白く血が通っていないに決まっている。
生身の腕がカタカタと震えているんだ。
「イエス、サー」と敬礼で答えて、上司とその妻を見送る。
カツリと再びなり始めた軍支給の革のブーツに、
ホッとした時だった。
震えていた腕が、やっと力を緩めて、
そうして解かれようとしていた時だった。
「そうだわ。私、名案があるの」と。
きゃらりとした声で、紺色のスカートを揺らして、
准将婦人はこちらを振り返った。
「私の警護を鋼の錬金術師さんに頼みたいわ」
「それがいいわ。そうしてくださいな」と、
思いついた名案とやらを嬉しそうに語る准将婦人は、甘えた声で彼女の夫にそう告げる。
「しかし・・・・君に鋼のを同行させるのは」
「あらっ嫉妬でもなさってくれるのなら、嬉しいですけれど。
あなたはお忙しいし、他の警護兵では襲ってくださいと言っているようなものですわ。
その点、エドワードさんだったら、一見して警護者だなんて、分からないでしょうし。
ねぇ、いいでしょう?」
話の全く見えない会話が展開されている中で、
不安げにしている少女を見る。
大切な人が選んだ人と、話をしている。
その情景がこの少女にどう映っているだろうか。
親しげに会話を繰り広げている2人に、
耐えるような視線を投げかける少女。
「鋼の錬金術師さん。お願いがあるのだけれど」
了承を下さない夫との話を打ち切って、
准将婦人はその瞳をこちらに向けた。
紅い唇から響くその声は、どんな大人の声よりも煩わしく聞こえる。
「私、お父様主催のパーティがあるので、午後の便でウェスト方面に向かわなければならないの。
夫同伴が望ましいのだけれど、この人が離れらないというものだから。
・・・・1人では、いろいろと危険だから、警護をつけるというのだけれど、
貴方にお願いしたいわ」
「・・・・と、言う事だが頼めるかい?」
しぶしぶといった様子で、准将は妻の横に立ち、こちらを窺う。
ふざけるな。と思う。
「父親主催のパーティ」ともなれば、この女が准将の妻だと披露してまわる場所だろう。
祝いの言葉と羨ましいと賞賛される中で、
そんな場所に、この子を投げ込むような真似に賛同できない。
「俺が行きますよ、准将。警護なら、十分でしょう?
おい、エド。・・・・お前は、ここで休んでろ。な?」
上司の言葉を遮るようにして、間にはいる。
体調ばかりのせいではないが、とにかく、今は休ませてやりたい。
「・・・・君は、そうやってハボックにかばわれて。
いい身分だな、鋼の」
「なっ!!エドを行かすンなら、俺が行きますよ。
こいつには、進んでいる道があるんだ」
黒い瞳が細められる。
部下として長く傍にいたが、ここまで冷徹な目線を受けたのは初めてだ。
ゴクリと喉が鳴るが、今は引けない。
「上司の妻を守るのは、部下の仕事の1つだと思うけれど、どうかしら。
貴方は、国家錬金術師なのだから」
うるさい。黙れ。
お前は、この少女がどんな思いで錬金術師を続けているのか知らないだろう。
泥の中を進むようにして、そうして軍属を続けているのを知らないだろう。
どんなに辛いか。
どんなに苦しいか。
暖かい家庭の中で。
血を見る事無く、手を汚す事無く。
そうして守られて過ごしてきただけのあんたに、
何が分かるというのか。
「・・・・上司命令だよ。エドワード・エルリック。
君が護衛に付きたまえ」
「准将!!!」
咄嗟に上げた非難の声に、エドが右手で制する。
「・・・・・了解しました。」
エドワードは小さく了解と敬礼をしてみせた。
時計の針は戻っても。
過ぎた過去は戻らない。
人は後悔する。
悔やむ事は必ず後から訪れる。
こんなことになるなんて。
そう呟いたのは誰だっただろう。
午後の勤務時間が終了した頃。
気まずい空気のままに過ごしたその執務室に。
書類のサインの音と、ファイルを繰る音が丁度止んだその時に。
会議が終わった中尉が、ふぅと息をついたその時に。
突如として響いた警報音。
『 土砂崩れ発生。
本日、イーストシティ駅ヒトゴーマルサン発、ウエストシティ行き 38便が
走行中、中部 カルト山脈の東部土砂崩れに巻き込まれた模様。
救助の応援を要請する。
なお、未確認の情報であるが、国家錬金術師一名同乗との報告あり。』
ここは東方司令部。
彼女が乗ったのは午後の便。
向かった先はウエストシティ方面。
重なった要因。
重なるはずのなかった要因。
誰も思っていなかった。
こんなことになるなんて。