軍将校のロイ・マスタングは、一日の勤務を終えて自宅を目指す。
腹心の部下は容易く許容量以上の仕事を申し付けるために、今日も残業と言ってよい時間となった。昨日までは深夜であろうと、月の光が照らしていた道であるのに、その光は分厚い雲によって遮られていた。
年若い少女でもあるまいし、今更恐怖することもない、
何より血と硝煙の匂い漂う戦場を潜り抜けてきたのだから、死の恐怖と、殺人の恐怖、
それ以上の恐怖などそうありはしなかった。
しかし、薄気味悪さは感じるもので、家への足取りも段々と速くなっていく。
あと数百メートルという住宅地の角を曲がろうとした時のこと、
ガシャリという深夜の住宅地で響くことの無い音を耳にする。
何だと、振り向きたくない思いと共に、その音のする方へと視線を動かした。
辺りは、生温かく、怪奇現象にはもってこいの舞台設定であろう。
月光も無く、僅かばかりの電灯の光も届かぬ隅から、人影と思われるものが動く。
軍服のポケットから、発火布を素早く装着し、人影の動きを探る。
住民であるとは思えないと、自分の第六感が告げている。
小さな錬金術師に友達と思えと言った、その第六感は、酷く自分の喉を乾かさせた。
唇を舐め、唾を飲み込み、呼吸を整える。
ゆっくりとした動作であるのに、確かに自分のほうへ向かってくるその影は、
大柄でなく、むしろ子どもといえる様な体躯であることに気づく。
奇妙だと思ったその時、雲に隠れていた月の光が、暗い路地の隅に光を落とした。
その光を浴びて、金色に輝く子どもが浮かぶ。
その姿は、見覚えがあるという域を越えたもので、黒の上下と赤いコートという普段の姿のままでそこにいた。その姿に、一度気を緩めるが、彼の手にあるものに、目を見開く。
彼の左手には、鎧の頭が握られていた。
正しくは、鎧の頭から伸びている飾り毛を彼は掴んでいたのだ。
その鎧の頭は、確かに彼が弟と呼んでいたそれで、その扱いを彼がすることは驚愕に値する。
「なっ何をしているのだね。君は。」
驚き、震える声のままに、彼に問い詰める。
彼が普通の状態でないことは確かである。俯いたままの顔を覗くようにするが、
そこで見たのは、薄笑いを浮かべるその姿。
いつも、太陽のように光の中で笑うその姿とは、全く違う病んだ者の目をしている。
「弟はどうしたんだ?!」
「弟?」
「そうだ!君が取り戻そうとしていた、弟だ!」
「あんたがいらないっていうから、元に戻したよ。」
スルリと鎧の飾り毛が手から離れ、その場に音を立てて崩れ落ちる。
決して脆くは無かったはずのその鎧が、崩れる様は、弟の悲しみの現れであるのか。
それは、彼との情事の後。
けだるいベッドの中で、シーツに包まれている彼に向けて言った言葉だった。
「君の弟に嫉妬しているよ。」
「アルは、弟だぜ。」
「それでも、君の一番近くにいることに違いはないだろう。」
いつもは結われている金色の髪を手に絡ませて、彼に話かける。
「俺は、あんたの一番なのかよ。」
「弟がいなくなれば、君の一番になれるのにね。」
ふーん、とまるで聞いていないかのように振舞っていたのに、
まさか、このようなことになるなんて。
「なあ、これで、あんたの一番になれるのか。」
狂気だと、そう思った。
彼をこのようにしてしまったのは、自分の言葉なのか。
その現実から逃げたいと思っているのは、なぜなのか。
「でも、俺、やっぱりアルの傍にいてやらないといけないんだ。だって兄貴だからさ。
これから、行くんだけど、あんたも来てくれるよな。
だって、俺は弟よりあんたを選んだんだから。」
影を踏まれ、その場に縫いつけられているのか。
自分の身体、指の一つも動かすことができない。
悪戯を企んだそんな顔ではなく、ニィと唇を高く上げる彼に、言い知れぬ恐怖を感じる。
戦場と同じ、命をかけた空間なのか。
「なあ、もう、戻れないんだ。アルだけ先に戻しちゃったからさ。俺、行かなきゃなんない。
なあ、来てくれるだろ。」
「私は。」
「あんたが、一番だよ。あんたを一番大切に思ってる。でも、アルから離れられないんだ。」
ああ、君を追い詰めたくて言った言葉でははなかったのだ。
ただ、自分を見て欲しくて。
その代償が、こんな形だとは、思わなかった。
愛しい君に、弟と離れることなど出来ないと知っていたのに。
自分の命すら捧げて取り戻したその魂を、その手で戻したのかい。
それは、どれほどの痛みをしていたのか、もう聞くことも出来ないけれど。
狂気の夜