片道切符

 

 

 

 

いつ以来だろうと熱くなり始めた目頭を自覚しながら問う。

あの青年が父親になる前の事だから随分昔のことなのだけれど、

それでも自分にとってあの記憶は忘れられるようなものではなかった。

 

 

 

確かに国の情勢がおかしくなり始めていることは知れた。

新聞の伝えるニュースに曖昧な点がいくつも出てきていたし、

買い付けを行っていた外国の店から不審な話もいくつか聞けた。

 

けれど、自分の周りに何かを失った者はいなかったし、

店には一杯の珈琲を求める客もいた。

 

ただ珈琲を選び、雑談を交わし、暖かい香りと空気に包まれている限りは、

この日常が破られるなどと誰が想像できただろうか。

 

 

 

 

「・・・戦場に行く事になってね」

 

 

青いまるで空の色とでもいうような軍服を着て、カウンターに座った客はそう言った。

彼のために淹れた薫り高い珈琲をクルリと回しながら。

 

どんな言葉も口から出ては来ず、何の冗談かと笑う事も出来なかった。

 

彼の声はあまりにも真摯で、そして深い悲しみや胸を突く痛みを含んでいるものであったからだ。

 

 

 

彼との付き合いは長くも短くも感じられたが、

彼の人となりや愛する者の存在を知るには充分な時間を過ごしていた。

彼の細君もまたこの店に足を運んだことのある客の1人で、

付き合いから言えば、彼よりも彼の妻との方が長いのだ。

 

 

彼らがまだ恋をする前から彼らはこの店の客だった。

 

 

ケンカをしたと言って逃げてきた彼女をかくまったこともあったし、

旅を続けて会う事のままならない恋人を心配する彼の心境を聞いたこともあった。

2人でここを訪れたのは何度ぐらいだったろうか。

 

結婚式の引き出物に使いたいと珈琲の注文を受け、

「最高に心地いい一杯を頼むよ」と今までの注文の中で一番難しい注文だと思ったこともあった。

 

 

部下と上司の関係だった2人が、

恋をして愛し合い、恋人になり共に添い遂げる事を決めて、

新たな命の芽吹きを知らせてくれるまで。

 

 

ずっと見守るといえば大げさであるけれど、

孫を見るような気持ちで2人の幸せを願ってきたというのに。

 

 

 

彼の妻である彼女の胎内にはまだ産声をあげていない子どもが宿っている。

 

 

 

 

「・・・それは決定なのですか」

 

「あぁ・・・唯一の救いは彼女にまで出兵の任が下らなかったことだ」

 

 

 

 

軍の狗だと彼らをあざ笑うものがいたとして、

笑えるものなら笑ってみろと…どんな思いでその任に頭を垂れ、了承を伝えたのだろうか。

 

 

子どもが出来たのだと笑う彼の顔。

こいつ皆に言いふらして歩いてるんだと照れたようにいった彼女の顔。

 

珈琲は胎児に悪いから少しの間お預けだという彼の顔。

珈琲店で何言ってるんだと怒り出した彼女の顔。

 

 

それでも幸せそうな2人の顔。

 

 

妻を気遣う夫の手と膨らむ前の腹を撫でる母親の手。

 

 

 

「生きて・・・帰ってください」

 

「もちろんそのつもりだ。私以外の誰が妻を幸せにするというのだね」

 

 

 

耐えるように笑って、そして珈琲を飲み干して彼は席を立った。

キィと歩くたびに軋む床がまるで彼を引きとめようとしているようだ。

 

カランとドアベルが鳴った時に彼はもう1度こちらを振り向いた。

 

 

 

 

「妻を頼んだよ・・・あの子は無理をするから」

 

 

 

 

それが私の聞いたロイ・マスタングの最後の言葉だった。

 

 

 

戦況を伝えるニュースは殆ど無く、

何週間送れになっているのか知れない新聞の記事を食入るように見つめては、

彼の名が載っていないことを期待する。

 

何ヶ月そんなことを繰り返していたか知れない時に、

それは本当に唐突にやって来た。

 

 

「おいっあの焔の錬金術師が戦場で死んだってよ!!」

 

 

人とはこんなにも無遠慮に人の死を口にする。

 

 

彼はそんな称号以上にロイ・マスタングという名を持つ一人の人間だった。

当たり前に笑い、普通の幸せを心から願い、何よりも人を愛す人だった。

誰よりも妻、エドワードを愛する人だった。

 

 

 

軍人の1人として、敵と血と硝煙に塗れた場所で、

誰にも送られることなく死んでいってよい人ではなかった。

それが例え自分の単なる感傷だとしても、彼はあの妻の待つ家に帰るべき人だった。

 

 

この知らせを彼女はもう受け取ったのだろうか。

 

 

まだ子どもが生まれる時期まで少しある。

そんな体調でこの知らせを彼女は聞くことができるのだろうか。

 

 

 

 

 

心配しながらも、彼女の元を尋ねることは出来ず、

またも自分の知らぬところで彼女が無事に子どもを産んだという話を聞いた。

それは彼の部下であった軍の女性からの知らせだった。

 

久しぶりのその人からの注文の電話は以前のものとは違っていて、

「彼はもういないのだ」と痛感するには充分であった。

 

 

 

「無事に・・・生まれた・・・」

 

「はい。可愛らしい女の子で。・・・母親というのは強いものなのですね、

 2人で・・・あの家に戻ると決めたようです」

 

 

 

3人で暮らすはずだった家に2人。

 

『私以外の誰が妻を幸せにするというのだね』

 

彼の言葉が蘇る。

 

彼女は彼をずっと愛しているのだろう。それはこれからも変わらず。

そしてそれは彼も同じ事。それは変わらない。

そこに新たに2人が育んだ命が加わった。

 

 

 

 

 

 

「はじめましてお嬢さん。・・・あぁお父様に良く似ている」

 

 

母親の手をしっかりと握ったままでこちらを見つめる大きな瞳。

見につけた青いコートと真っ赤になっている頬。

 

 

貴方が居なくなって仕入れる事がなくなった珈琲が二種類。

 

眠気を取るのに胃に優しい珈琲と薫り高いオリジナルブレンド

 

 

 

「さぁ、お座りください・・・貴方にとって心地のいい一杯を淹れさせてくださいな。

 お嬢さんは・・・ミルクは大丈夫かな?」

 

 

 

問うと「おじさんは魔法使いなの?」と可愛い質問が帰ってきて、

分からないままに首を傾げると、隣のエドワードはくすくすと笑った。

 

 

「とっても美味しい一杯をごちそうしてくれるから、うんって頷いたらいいんだよ」

 

 

笑いながらエドワードはそう言って、娘の髪を優しく撫でてやっていた。

 

 

 

・・・マスタングさん。

あなたの望んでいた一瞬がここにある。

 

妻と娘が笑い過ごすその一瞬がここにある。

 

しかし、エドワードさんの望んでいた一瞬はここにはない。

その一瞬には、必ず貴方が居ただろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロイエド子