あぁ世界がこんなにも優しいものだったなんて
在り来たりな表現をするのならば、
自分の歩いてきた道は真っ暗闇の中にあった。
毎日流れていく膨大な情報量の中で自分が手に出来るものなど高が知れている。
手に出来なかったものに焦り、振り返り、
取りこぼしてきたものにこそ求めるものがあったのではないかと
考えれば考えるほど体は固くなり、心臓はドクドクと音を立てたのだった。
朝がやってくるのが怖いほどに。
あの柔らかな光りですら、自分をけし立てるものに思えて、
ほらほらまた一日をお前は無駄に過ごしたのだと言われているようで。
それがどうだろう。
今のこの晴れやかさというものは。
その日は意図せず偶然に近い形でもたらされた。
自分でも驚くほどに鮮烈に頭に届く構造の成り立ち。
今までどうしてそれに思い至らなかったのか、それすら不思議なほど。
それを言い表すとするならば、
歩いていた真っ暗闇の中の道に閃光が駆け巡り、一瞬目を閉じた間に辺りが眩い光りに満ちたような。
過剰な表現であるかも知れないけれど、自分にはそう思えた。
「なぁ・・・あんたの軍服って空の色とは違うんだな」
エドワードはだだっ広い土手の草原でそんなことを言った。
青々とした草の中に共にいる軍人に向けての言葉である。
時折通り過ぎる強い風に、草が揺れて音が出る。
ザザッという音に、それでもその声はかき消されることなく軍人の耳に届いた。
「この色が空の色だといったのは君じゃないか」
横にいる軍人、ロイは金色の瞳が自分の軍服に向けられているのを確認してから、
おどけるように肩を竦ませた。
何故二人がまだこんな昼間に、
人通りなど年配者の散歩か自転車で駆ける人が数人いるだけのこんな土手で、
そうしてのんびりと話をしているのかと言えば、
それは二人にもよく分からない感情ゆえだった。
身体を取り戻したのだとエドワードは司令部を訪れた。
もちろんそれは最大の禁忌であり、簡単に許されるような錬成ではない。
だからこそ、これが最後になるだろうと思いながら銀時計を門番に見せ、敬礼を受けて司令部に入り、
見知った階段と廊下を渡りそうして執務室まで辿り着いた。
無遠慮に開けていた扉を前にして、
あぁ、あの時はそう開けるしか方法が無かったのだとエドワードは唐突に感じた。
まだまだ子どもの自分にこの扉はとても重かった。
けれど、後ろには鎧となった弟が、「入らないの」と問いかけてくる。
トントンとノックをして、そうして返事を待って入るだなんて、そんな事は出来なかった。
心臓が恐れを訴える前に、軽口の叩ける自分を用意して、そうして扉を開けていたのだ。
ドアノブを握る手が震えているなどと知られるわけには行かなかった。
ノックをして了解を得て扉を開くと、
ロイが驚いたという顔をこちらに向けたのが少しだけ可笑しく思えてエドワードは笑った。
実際「驚いた」と小さく呟いたのが聞えるとさらに可笑しくなった。
スタスタと執務室の机に近づいて、さっとペンを取り上げる。
『錬成に成功した。アルも無事だ』
書き殴るようにして書いたその文字は、
スペルこそ間違ってはいなかったが、キレイな文字とはお世辞にも言えない文字だった。
けれど、その何の変哲もないデスクの上のメモ用紙に、
ロイはそっと指を添わせると「そうか」と小さく言ってから、
「よかった」とそれもまた小さく小さく囁くようにそう言ったのだった。
それは目の前にいるエドワードに聞かせようとして言ったようには思えず、
彼の思いこそが言葉になったような声であったからこそ、エドワードはその声に泣きたくなった。
走馬灯のように今までが過ぎるなんて、
そう言えば縁起でもないと笑うかもしれないけれど、
例えばあの錬成をした直後の痛みに朦朧としていた部屋の天井だとか、
「収穫なし」とだけ書いた報告書を憤りに任せてくしゃくしゃに丸めた時のことだとか、
ふと流れてきた陽気な音楽を聴きたくないと乱暴に消したラジオのことだとか、
そんな些細な、自分でも忘れていたような場面ばかりが思い起こされて、
ツンと瞼の奥のほうが痛むような、喉がカラリと渇くようなそんな思いがしたのだ。
そうして程なくして、「付き合いたまえよ」とロイがエドワードを誘った。
断ることなど考える隙もなく、歩き出したロイの後をエドワードが追う。
どこに向かうのかと思うだけで問うわけでもなく、
そうして付いたのが司令部と駅を結ぶ橋の袂近くにある土手だったと言うわけである。
流れてくる風と揺れる草の音。
川に架かる橋と鉄橋の鮮やかな赤が空の青の中に溶け込んでいる。
そうしてふと思ったのだ。
エドワードが常々目にしていた彼の軍服を「空の青」と評していたけれど、
空の色とはこんなにも澄んだ色をしていたのかと。
軍服の青とは全く違う色なのではないのかと。
「今・・・見るとさ、あんたの服の色と空の色って違うもんだなぁと思って」
目をパチリと動かして、背景に広がる青色と軍服を重ねて見ても、
より際立ちながらその色の違いに驚いた。
どうして今までこの色を空の色だと思っていたのだろうかと。
「あぁ、この軍服の色は空の青さなどという綺麗なものではないんだよ。
けれど、君がこの色を空の色だと言い表していた時には、君には空がこんな色に思えていた。
それが変わったということなのではないのかね」
気分によって風景の色まで変わってしまうなんて、
そんな馬鹿なことをと笑うなら笑えと今ならそう思う。
「そうか・・・そうかもな」
「あぁ、きっとそうなのだろう」
軍服が何故にあの青なのだろうかと疑問に思ったことがある。
潜入するにしろ、あの色は目立ち過ぎるし、
血なまぐさい事件では、軍服の汚れは嫌に際立たされた。
いっそ黒ならいいのにと。
この色を覚えておくといい。
いつかこの色が何の色だか分かるようになるまで。
嫌味なほどに空の色だろう。
いつかその判断が変わるときが来ればいいなと願っていたよ。
君の見る空の色は、何よりも澄んだ青空が似合っているからね。