「ロイ・・・」
なんだか分からないんだ・・・
苦しくて、苦しくて・・・もう何も考えられない・・・
ごめんな、ごめんな、ごめんな。
【幸せの定義】
「ごめんなさい。ごめんなさい。こんな風になるなんて・・・。」
鎧に包まれていた少年は、すでに居なかった。
そこに居たのは、彼女の金髪よりも少しだけ色の濃い金髪の少年。
スラリとしていて、人のよさそうな顔が今は苦痛に歪められている。
ここは、中央にある病院の一室。白いばかりの調度品に飾られている。
中央司令部が連絡を受けたのは、一時間ほど前だった。
ひどく錯乱した医者が司令部に緊急電話をよこした。今までにない症例だと。
軍の機密に関わるかもしれないと判断したため、司令部に連絡が回された。
しかも、患者は国家錬金術師であった。
司令部は静かなもので、まさか、そんな事件が起きるなどとは思ってもいなかった。
すでに、焔の錬金術師であり、准将という地位にいたロイ・マスタングは、
長年思いを募らせていた少女、エドワード・エルリックと結婚の約束をしていた。
お互いの思いに気がついてからも、結婚と言う言葉になかなか首を縦に振らなかった彼女は、先日対に答えを出してくれた。
「准将が・・いいな。」
ぼそりと、脈略なく呟かれたその言葉。ともすれば、聞き逃していたかもしれない。
「なんのことだね。」
と、聞き返すと、その顔を真っ赤にしながら言い返した。
「結婚するなら、准将がいいって言ってんの。」
ぷいっと顔を背けながら言った言葉。
それは、とても甘くて、嬉しくて、泣きたくなった。
その思いを伝えるために、優しく身体を抱きしめると、
その腕をきゅっと握り返しながら、
「もう少しで答えが出るんだ。だから・・・な・・・。」
耳まで真っ赤にしながら、そう呟く彼女が愛しくてたまらない。
なのに、なぜ。
つい先日そう答えた彼女は、いまベッドに横たわっている。
絹糸のような金髪を、白いシーツの上に巻き知らし、
いたる所に赤く染まった包帯が巻かれている。
目が痛い。
心が痛い。
なぜ、なぜ、なぜ。
連絡を受けたのはホークアイ大尉だった。
話中にも関わらず、内容を理解した彼女は准将に向かって叫んだ。
「すぐに病院へ!エドワード君です。」
内容を要約したかのような、ただそれだけの言葉。しかし、それだけで十分だった。
事の重大さは彼女の顔を見れば分かってしまったから。
移動中の車内で、細かな内容を聞いた気がするが、よく覚えてはいない。
医者は人体練成の可能性有り。と伝えてきたという。
無事で・・・
無事でいてくれれば、それでいい。
人体練成の禁忌など、どうにでもなる。
自分はそれだけの権力を手にいれているのだから。
通された病室は、静かで、ピッピッピッという規則正しい機会音だけが響いていた。部屋の白さは、どこか異質で、背中に寒さが押し寄せてくる。
「姉さん・・・姉さん・・・。」
ベッドの横に少年が座っていた。布団から出された手をさすっている。
「アル・・フォンス・・君」
ホークアイ大尉が恐る恐る声をかけるのを、どこか遠くから見ているようだ。
ビクリと彼は身体を揺らし、真っ赤になった瞳を私たちに向けた。
「・・・っ、ごめんなさい。ごめんなさい。こんな風になるなんて。」
ベッドにいるのは愛しい人。
痛々しい彼女。
自分の愛しい人。
「何が・・あったのだね。どうして・・・どうしてエディがここにいる!!」
バンっと壁を叩く音が、病室に響きわたる。
その音に、少年はまたビクリと身体を揺らした。あたりに張り詰めた空気が流れる。
言いたくない。
この言葉をこの人に言わずにすむのなら、いいのに。
これは、僕の罪だから。
ボソリと彼は俯いたまま、その言葉をつむぎだした。
「賢者の石の研究が終わって、姉さんは僕の身体を取り戻せると喜んでました。でも、まさか、姉さんが、等価交換に持っていかれるなんて思っていなかった。」
「アル!これでお前の体を戻してやれる。」
ニコニコと笑って、赤い石を目の前に差し出した。
「やっと願いが叶うね。」
なにも知らないから、笑えた。知っていたら、止めたのに・・・。
僕は、また姉さんを止められなかった。これは僕の罪。
「確かに、賢者の石は僕に身体を作りました。でも、僕が失っていたのはそれだけでは、なかったんです。僕は感覚が無くなっていた。触覚や味覚・・そんな感覚です。僕と姉さんは、感覚は身体に付随するものだと考えて研究を続けていました。だから、身体を補うことができれば、それに魂を練成することができると。でも、体と感覚とは別なものだった。練成の過程で、その違いを理解した姉さんは、すぐに別の等価交換できるものを用意したんです。」
「姉さんの感覚を。」
今は二人。この白い空間に愛しい人と二人。
旅に時間を費やしていた愛しい人。いつも二人になることを望んでいた。
今は動かない、体。
金色の美しい髪。
ゆっくりと髪に手をあてる。
サラサラと自分の手は髪を留めない。
「こんな風に君と二人になることを望んだわけではないのだかね・・・。」
返事はない。
機会音が耳障りだ。
「准将・・・。一度、司令部に戻っていただけますか?」
控えめに扉を開けたホークアイ大尉は、そう告げた。
ここを訪れたのは、まだ太陽が中央に昇った頃だったか。
だいぶ夜が深くなっている。飽きることなく、髪を撫でた。
いつもなら、くすぐったそうに、笑ってくれるのに。
「愛してる。どうしようもなく好きなんだ。」
いつもなら、「よく、そんなこと言えるなっ。」と顔を真っ赤にするのに。
そして、「でも、俺も。」そう言って・・・笑顔をむけてくれるのに。
何度、囁いても動かない。
一言も、何も返してくれない。
ただ、機会の音だけなんだ。
エドワード・エルリックが目を覚ましたのは、それから一週間後だった。
「っ・・・姉さん。僕だよ、アルフォンスだよ。ねぇ、分かる?」
そう、僕が問うと、姉さんはコクリと頷いた。
あぁ、姉さんが帰ってきてくれた。
姉さんが失ったものを考えれば、それは自分のエゴだけど。
僕を僕だと分かってくれる。それはもう、本当に嬉しくて。
これから、いっぱい、いっぱい謝るから。今は、喜ぶ僕を許して。
「先生呼んでくるね。」
そう言って、病室を出ようとしたら、姉さんは僕の服をつかんだ。
「ア・・ル。大尉を・・大尉を呼んで・・・。」
途切れながらも、姉さんはそう言った。
「准将じゃなくて、大尉・・ホークアイ大尉を呼ぶの?」
姉さんの顔に近づいて、そう聞き返す。
「あぁ。准将には、知らせなくていい・・・」
さらに、訳がわからない。
姉さんを一番心配していたのは、きっと准将だ。
悔しいけど、でも、准将だと思う。僕は、怖かったから。
残される自分を思ってしまったから。
でも、姉はそんな准将に知らせなくていいと言う。
「本当にいいの?」
もう一度、ゆっくりと、優しく・・・聞き返す。
姉さんは、ゆっくりと頷いた。
「エドワード君。よかったわ。気がついて。」
連絡をしたら、すぐに大尉は病院へと来てくれた。連絡と言っても、自分から司令部に電話すれば、必ず准将に知られてしまう。もちろん、病院からかかっても同じだろう。僕は、一度、調査部へ連絡し、ヒューズ大佐に伝言を頼んだ。
「准将に知られないように、ホークアイ大尉を病院に呼んでください。」と。
ヒューズ大佐も、准将がどれだけ姉さんを心配しているか、
どれだけ大切に思っているかを知っている人だったから、
「どうしてだ。」と聞かれた。僕だって分からないことを伝えて、でも、姉さんがそう望んでいることを伝えた。
ヒューズ大佐は、ため息を一つ零して「分かった」とだけ言った。
「エドワード君。」
優しく、優しく。
そうしなければ、目の前の少女は崩れてしまいそうで。
彼女に出会ったのは、彼女が一一歳の時。
腕と足を失った少女。自分の弟の身体を失った少女。
どうして、こんな子どもが・・・。と思ったが、子どもだから、起きた事故だったのかもしれない。全てを拒絶していたと思った彼女は、自分の上司によって
その沼から這い上がってきた。まさしく、泥の沼だったのだと思う。
再び逢った彼女には機械鎧の腕と、足がついていた。
小さな、少女の身体に。似合う筈の無い、機械鎧。
彼女は、よく笑っていた。明るくて、クルクルと表情が変わる。
軽い口調でなんでも話している。
だから。
そんな子だから。忘れてしまいそうになる。
彼女の決意やその肩に圧し掛かっているものの存在を。
子どもの言葉は、時に残酷で・・・忘れていたものを搗き返してくる。
なかなか話そうとしないエドワード。
彼女は、自分に話があると言っていたという。
目の前の少女は傷だらけで、まだ包帯が目に痛い。
彼女の腕を持ってしても、弟の身体を練成することは難しかったのだろう。
それが、成功かどうかは分からないが、彼女の弟が身体を取り戻したのは事実だ。
「大尉・・・。」
ゆっくりと話し始めようとする幼い子。
この子がこんなにも重いものを背負っているなんて、まだ気付いていなかった。女性として、そんなにも重いものを。
心が痛い。
身体は動かないし、目が霞む。
アルの感覚が体とは別のものかもしれない、そう思ったのは少し前だった。
身体を戻してやっても、感覚が無いんじゃそれまでと変わらない。
取り戻してやりたかった。何と引き換えにしても。自分の持てるものなら・・・。
真理が自分の感覚はどうだ?と、言ったときそんなものでいいなら十分だと思った。
だって、今までのアルの苦しみは、全部自分が背負うものだったから。
身代わりだなんて思わないけど、それが一番、等価交換に叶っていると思った。
でも、それが等価なのか?
それは、両腕や両足や・・・まして感覚なんかとは比べられないだろ?
もう、大切な人のそばに居られなくなるじゃないか・・・。
それを背負うのが次の罪なのか??
「大尉・・・」
なんだろ声がかすれる。自分の声じゃないみたいだ。
あぁ、だって自分はこんなこと告げたくはないのだから・・・。
でも、言わなくちゃいけない。
本当なら黙って、嘘をつき続けないといけないけれど。
「記憶喪失??」
彼女が言ったのはその言葉。
自分は全てを忘れるから、その手助けをしてくれと頼んできた。
母を失うまでのあの幸せな時間に戻ると告げられた。
「エドワード君、確かに貴方が今まで過ごした日々は、決して楽な道ではなかったわ。でも、すべて無かったことにするなんて・・・。
准将・・・ロイ・マスタングに出会ったことさえも無くしてしまえるの?」
分からなかった。
確かに、彼女の苦しみが全て夢であればいいのに・・・そう願ったことはあった。でも、彼女はそれを乗り越えて、上司と幸せになるための約束をしたはずである。
執務室で今までの雰囲気とは違う上司をみて、すぐに気がついた。
あぁ、思いが通じたのだと。
「おめでとうございます。式には呼んでくださいね。」
そう言うと、顔をあげ、表情を和らげた。
「わかるかね・・・。ぜひ来てくれたまえ。」
白い手袋に包まれた手で口元を隠して、幸せそうに笑っていた。
彼の思いはどうなるのだ。
忘れることなど出来るはずがない。
「一番覚えてたら駄目なことだよ・・・ロイのことは。」
苦しみを噛み締めるかのように、告げられた言葉。
「だって・・・だって、これはロイのための嘘だから。」
全ての思いに蓋をするんだ。
彼が傷つかないように。
もう自分なんいらないって、そう想うように。
「俺・・・もう子どもが産めない。」
痛そうに、痛そうに。
感覚が全て無くなったと告げられた少女が、その顔を苦痛に歪める。
「等価交換・・・。まさかここを持っていかれるとは思わなかったけど。」
そういってお腹の下・・子宮のあたりを撫でている。
「検査もまさかここまでしてないでしょ?」
そう、私たちが聞いたのは全く痛みを感じていない患者の様子。
医者は、こんな症例は初めてだといった。手術をすれば、意識がなくても身体は痛みに反応をする。しかし、この少女にはそれが見られなかった。
処置をした後、微量な電流を流し、確証を得たという。
感覚と呼ばれるものが、もとから無かったかのように、消えてしまっていると。
それが、大事件だったからなのか、エドワードの意識が戻るのを待ったのか、
まだ詳しい検査は行なわれていなかった。
「それは・・・」
「確かだよ。」
言葉を被せて、その先を言われた。
信じられなかった。女性として、それは・・・辛いことだから。
「だから、記憶喪失のふりをして、准将との婚約を破棄しようというの。」
コクリと頷く少女の目は意思の強さと、悲しさで揺れている。
「准将に、子ども産んであげられない。こんな体じゃ、結婚なんてできないよ。」
俯くままの少女。
駄目よ・・・駄目よ。
この子をこのままにしておくなんて。
「でも、准将は、それでも結婚を望むと思うわ。」
少女の顔が悲しく歪む。
「だから・・・だから。全て無くしたことにするんだ。
出会ってなくて、好きになんてなってなくて・・・。
ロイのことなんて知らない、人体練成なんて知らない。
そうなれば、ロイは諦めやすくなる。」
唇を噛み締めて、思いの深さで息をする。
そう、確かに准将は彼女を受け入れるだろう。
あの人にとって、彼女を失う以上に恐れているものなどないのだから。
この子は・・・。本当にどうして、自分ばかり傷つけるのだろう。
自分の記憶はあるのに、大切な人の記憶を無くしたと偽る。
そのことが、どれほど辛いか。
目の前で大切な人の苦しそうな顔を見ても平然と彼を知らないと言い続ける。そのことが、どれほど苦しいか。
考えて、考えて。
大切で、大切で。
愛しくて、愛しくて。
だから、そんな結果になるというなら、そんなことは間違いだ。
この少女は、幸せにならなければいけない。
幸せになることは、絶対だから。
もう、この子が苦しむのは、それだけは、絶対に間違いだから。
ゆっくりと金色の髪を撫でる。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「私の上司を不幸にしないで・・・。」
その言葉に自分を見上げる瞳は、しかられている子猫のようで、
ずぶ濡れで、震えていて・・・。
「あの人は、貴方が離れてしまうほうが、きっと何倍も苦しいの。
お願い。助けてあげて。あの人を1人にしないであげて。」
俯いた少女は、とても不安そうで。
その細い肩を、ゆっくりと抱く。
「俺・・・だって、何もしてあげられない。」
「そばにいるだけで、幸せなこともある。
それが、エドワード君には分かっているから怖いのね。」
そう。自分が幸せになるのが、怖いのだ。
ロイと一緒にいれば、自分は幸せになれる。
でも、ロイは?
ビクリと肩が震える。
「幸せになれるわ。貴方と准将ですもの。
君は、幸せになっていいのよ。成らなくてはいけないの。
私の上司と一緒にいてあげて。ね。」
その言葉に彼女は小さく頷いた。
病院から連絡を入れると、彼はすぐに病院へとやってきた。
話の内容を話すと、少しだけ痛そうな顔をした。
「エディ・・・。」
白い病室。そこは、少し前までとても寂しくて。悲しかった場所。
「ロイ。」
言葉が返ってくる。愛しい人の声。ずいぶん聞いていなかった気がする。
あぁ、生きている。そのことにただ安堵する。
「大尉から聞いたよ。私を忘れようとしたんだと・・・。」
瞳が悲しそうに揺らぐ。だってと、その気持ちが痛いほど分かる。
「愛している。」
彼女の瞼にキスをする。
「大丈夫。忘れさせたりしない。」
「エドワード。君を愛しているんだ。 子どもを産めるから、君を愛したわけじゃない。 君が君だから。もう、それだけで十分だ。」
目を見つめる。何かを言いたそうな、でも言えない、そんな顔。
「っ、幸せになるなら、ロイと一緒がいい。」
精一杯。
そう言ってくれるんだね。
あぁ、幸せになろう。
二人で。
「もちろんさ。一緒にいて幸せに成れないはずがない。」
だって、いまこんなにも
気持ちは溢れ出すほど、幸せなのだから。