この旅が早く終わるように。
この子が狂ってしまう前に。
■ スープの中に 毒虫 一匹 ■
雨がサアサアと降り出したのは、
鬱陶しい程の湿気が溢れていた午後だった。
降りそうで降らなかった雨粒は、ぽつりぽつりと落ちてきたかと思えば、
いつのまにか行く先が見えないほどに勢いを増した。
銀の砂を撒き散らしたようだと、いつかそう表現した少女がいた。
それは本当に綺麗だよと。
瞳を半分だけ胡乱気に窓を見つめて、
冷え切った手で日に褪せてしまったカーテンを握っていた。
強行軍で駅から駅に着いて、そのまま司令部に走り寄ったと語った少女は、
裾から雨粒を溢して、質量を失った髪を張り付いた額から拭った。
こんな無茶をよく弟が許したと思ったが、
カションカションと音を立てる彼の姿は、ずぶ濡れの彼女の横になかった。
「アルなら宿に行っているよ」と言う少女。
こんな雨の中を走って、もし鎧の中の血印が消えてしまったらどうするのだと、
頬を膨らませて抗議する。
雨で血印が消えてしまうとするなら、
彼はきっと何度もこの世を離れる危機に瀕していただろうと思ったが、
それを口にする事はできない。
きっと、その言葉を受けた弟もまた苦笑1つ返して、どしゃ降りに消えていく姉を見送ったのだろう。
「とにかく、身体を温めないといけない」
軍将校専用の下仕官とは別のシャワールームの鍵を渡す。
この司令部内には、私以外にこのシャワールームを使う者はいないから、
この性別を偽る少女が使用するには適している。
「・・・・タオルだけ貸してくれれば、それでいいよ」
「そんなに身体を冷やしてしまって、また熱を出したらどうするんだい?」
彼女は一度、今のように「タオルだけ」と言って申し出を断って。
そして風邪をひいて、熱を出した事があった。
冷たく冷える機械鎧の腕と足を持っているのだ、冷える時には身体の神経をも冷やしてしまう。
そんな事があったから、彼女は少しの躊躇いを含んだ上でその言葉を言ったのだろう。
もちろん、咎められることも視野に入れて。
「うぅ」と小さく唸ってから、ジャラリと鳴る鍵を受け取る。
右腕を差し出して、金属は擦れて堅い音を立てた。
何故か彼女は左腕を差し出さない。
暖かさを伝え合う時。
例えば、寒さに手を繋ごうとした時や頬をなぞるその腕は。
生身の血の暖かさ伝わる左腕を差し出すけれど。
その意味を自分は知ってしまっているけれど。
それを知っている自分を彼女は知らない。
「眠いなら、寝ていいから」
ほこほこと外の雨に反して、彼女は血色よくなった瞼を擦った。
冷たかった体が急に温かくなり、
疲れも溜まっていたのだろう、睡眠を欲してもおかしくない状況だ。
こんな執務室のソファーの上で、
仕事をしている自分の横で眠ろうとしているのがこの少女でなかったならば、
きっと自分はこんなに穏やかな気持ちにはなっていないだろう。
いらいらと「邪魔をするなら出て行け」と口にしたかも知れない。
人前で進んで気を休めるような少女では決してないから、
こうして幼い様子を見られる事は、嬉しいとすら思ってしまう。
自分の声が酷く甘い響きを持っている事を自覚しながら、
少女に「眠ればいい」と促す。
濡れていた髪は、常のように後ろで編まれてはおらず、流されるままだ。
それを乱雑に拭くのではなく、
毛先をきゅっきゅっと絞るようにして、水滴を落とす。
トロンとした動きに、少女がいよいよ眠くなっているのを感じて、
堅い皮張りの回転椅子から起き上がる。
余韻にカラリと回る椅子を無視して、窓際まで足を進める。
そこにはコートが掛けられるように置かれているクローゼットがあり、
その中に置かれている、肌触りのよい肌掛けをソファー前まで持っていく。
無言のまま差し出されたそれを、彼女はふわりと受け取り、
その生地を確かめるようにして、頬に当てた。
眠い時に、柔らかいタオル生地のそれは。
きっと彼女を深い眠りに誘う事だろう。
再び椅子に戻り、ペンを持ち書類に向かう。
人の気配が自分に向いている限り、彼女は眠ろうとしないのだ。
カサリ、パタン。
サラサラ、カサリ。
何度か、サインと書類の整理と、また書類の手直しとを繰り返し、
すぅすぅと寝息がそんな処務の合間に聞こえて来たとき。
自分は少女を見る。
大きいとは言えない来客用のソファーに、
肌掛けを抱き込むようにして眠る1人の少女。
「はぁ」と1つため息が漏れる。
真夏に長いコートを着ているのは、
確かに機械鎧を他人の目に触れさせまいとする事からだろう。
いや、そうだっただろう。
熱に魘された彼女の見舞いに行ったとき。
それは、今から何ヶ月前のことだったろうか。
見てしまった。
彼女が隠したがっている、コートを着込むもう1つの理由。
彼女が左腕を差し出さない理由。
失っていないはずの左腕。
そこに走った何本もの紅い線。
それがリストカットの痕だと気付いたのは一瞬のことだった。
その時に自分を襲ったあの感情をどう言い表せばいいだろう。
それは怒りだったのか、悲しみだったのか、それとも同情にも似た哀れみだったろうか。
熱に魘される少女の細い細い白い腕に、
不釣合いなほどに紅い幾線。
反射的に彼女を揺り動かして、その傷の意味を語らせようと腕が動いた。
けれど、その衝動をぐっと力を込めて耐える。
もし、これを彼女に問いただしたところで、彼女は事も無げに返事をするに決まっている。
ただの気まぐれに過ぎないと、また自分を偽るのだろう。
肩口と足にはすでに酷い傷口があるというのに、今更こんな傷が増えたぐらいどおって事ないとばかりに。
それはまた自分を酷く落胆させるに十分だろう。
そんな悲しい言葉をこの子言わせる訳にはいかない。
この素直で、一直線で。
ただ一心に前に進むこの少女が、一体どんな気持ちでと思う。
育った環境も、その境遇も同じではない自分には、
この眠っている少女の心の内など知る事はできないけれど。
それでも思わずにはいられない。
きっと弟に隠れるようにして、残った生身の腕に傷をつける少女のことを。
その血が溢れる様子は、もしかしたらこの子どもに歓喜を与えているのだろうか。
それとも深い絶望を与えているのだろうか。
ロイはもう一度、小さくため息をついて、眠る少女を見つめた。
限界に近づいていく足音は
どこかとても近い場所から発せられている。
この旅が早く終わるように。
この子が狂ってしまう前に。
どうか。
どうか、どうか。