住み慣れた家に2人
子どもの泣く声でエドワードは目を覚ました。
ぼんやりとした先にここがリビングだと知れる。
リビングのソファーになだれ込むようにして眠っていた自分に気付くが、肩は重いままで、
久しく眠れていなかった瞳は腫れぼったく感じられた。
夫の死をあまりに唐突に聞かされて、
それから後の記憶を辿ろうとしても霧がかかったようにぼんやりとしたものしかなく、
あるいは誰かが世話を焼いてくれていたことを覚えてはいるが、それが誰なのかははっきりとしない。
故郷の暖かな人々か幼馴染か、あるいはたった一人であった(今は娘がいる)肉親の弟か、
夫の部下であった人たちか。
きっとその中の誰かによって自分は今生きているのだろう。
もちろん、当時自分の胎内にいた娘についても同じことがいえるのだが。
それでもいくらか落ち着きを取り戻し、
腹の中から命を主張し続ける彼との子どもの存在に顔を上げることができた。
夫の死を受けいれるまでには随分な時間を要しはしたが、それについて誰も咎めるものはいなかった。
娘を産んで、一人の人間を抱いたとき、初めて命というものがいかに難しい存在であるかに気付かされた。
自分は人体練成という禁忌を犯し、弟の身体を取り戻すという無謀にも思えるそれをどうにかやり遂げて、
少なからず「生命」というものに知識を持っていたというのに、だ。
生まれた時から、子どもは一人の人間として生きていく。
当たり前のようだが、初めて分かったことでもあった。
知っているというのと理解するということは違うのだ。
着るものを与えなければ寒さを訴えるし、腹を空かせば泣く、もちろん排泄も行う。
そして、それらが上手く機能しなければ、なんとも簡単にその小さな命は消えてしまうのだ。
泣かれ続けて途方に暮れたような気持ちになったことも確かにあったが、
それでも子どもの瞳は美しく、撫でた頬は温かく、その命を育んだのが死んでいった夫だと思えば、
愛しさが込み上げ、抱きしめている自分がいた。
子どもを生んだ後の何週間かを故郷であるリゼンブールで過ごした。
中央にも大きな病院はあったし、設備も申し分なかったが、自分は故郷での出産を望んだ。
それには、不安定な情勢という意味ももちろんあったし、
亡き夫と自分との間の子が生まれるということは、
戦力欲しさに目を輝かせている軍にとっては喉から手が出るほどに欲しい人材であるということは、
誰に言われるでもなく自分が一番分かっていた。
優しい軍人がいることも知っているが、軍の狡猾さは今もはびこっている。
無事に出産を終えて、何日かの間はいつも自分以外の誰かがいてくれた。
それは情緒不安定に泣き出してしまう自分を気遣ってのことだったのか、
単に生まれたばかりの子どもをあやしてくれていたことなのかは分からない。
あるいは、その両方だったのだろうか。
娘が生まれて何週間か後に、離れていた自宅へと戻った。
自宅と称するにはどこか違和感を持つが、そこは確かに自分にとっての家だった。
生まれたての娘にとっては初めて踏み入れる家であったとしても。
初めて二人で過ごす夜があった。
夫婦で使っていたベッドに娘と横になるとあれだけ泣き続けた涙がやはり溢れてきた。
あぁ、どうして目の前に彼の柔らかな寝顔を見ることが叶わないのか。
娘と二人で過ごすという選択をしたが、もちろんそのまま故郷で過ごすということも考えた。
中央の情勢はいいとは言えないし、残党によって襲撃されないとも言い切れない。
頼れる人が近くにいるという点にしても故郷で暮らすという選択の方が幼い子どもを育てていくには、
適していると誰もが思ったであろう。
それでも。
誰が想像できるだろうか。
ここから離れてしまうということの恐怖を。
ここから離れてしまえば、彼が生きていた、生きて自分と過ごしたその家を失くすということ。
壊さないとしても、誰かに譲るとしたならば、この家を誰かが使うということ。
それに自分が我慢できるとはどうしても思えない。
確かに自分で娘を育てるのだとムキになっていたとも言える。
しかし、自分にとってこの家を手放すということは、ひどく困難なことに思えた。
青とグレーで揃えられた寝室のベッドとシーツ。
月明かりを楽しんだテラスのテーブルとイスのセット。
使い勝手が良いようにと特注で頼んだのだと笑って言われたキッチンのシンク。
手の届く範囲に並べられた棚の数々。
あぁ、どこを見ても彼との思い出に溢れているこの場所を。
背の高い食器棚はある意味異質に思えるほどに家の中の家具は小さく揃えられていた。
『どうしてこの食器棚だけ大きいモノを選んだんだ?』
『あぁ・・・食器は食卓で使うだろう?
もちろん君だけが食事をすることもあるだろうけれど、その為に使う食器は取りやすい場所に。
食事は家族でが基本だからね。』
企むような笑い顔で、高い位置に食器を収めていく夫。
クリスマスの時に使う大皿やパイ型。
記念日に使うための細工が施された綺麗な揃いの食器。
『この食器を使う時は、私がここから出してあげるのだから、心配はいらないよ』
どうするんだよ。
あんな高い場所の食器を取り出すのはあんたの仕事なのにさ。
リビングに置かれた小さな子どものための用品をどこに納めようか。
小さな食器も小さな洋服も。
うきゃぁと泣く娘の声がする。
『君の娘だからきっと元気なんだろうな』
元気だよ。あの子は本当に元気だ。
まるで火が付いた様に泣くって皆に言われるほどにね。
なぁ、あんたの娘だろう?