「・・・・・あぁ、そうかね。
それならば、私は君にこれ以上手を貸す気はないよ。
では、もうここには来なくていい。君がそれでいいのならね」
司令部に響いた声。
隣でコーヒーを運んでいたフュリー曹長はその声に震え上がり、
カップのソーサーに乗せていたカップミルクを取り落としてしまった。
ガチャリと乱暴に切られた電話が、
勢い余りかみ合わないままにツーツーと音を立てている。
・・・・・まったくもって、この上司は。
少し前、とても上機嫌で受話器を受け取っていたというのに。
この変り様。
しかし、どうだろう。
電話の相手が「ひどく年齢的に幼くて、えっ犯罪?!」というような恋人からであるのに、
どうしてこうも機嫌が悪くなっているというのだろう。
さらに言えば、先ほどの会話をその「ひどく年齢的に幼くて、えっ犯罪?!というか犯罪だよね!!」の
恋人としたと言うことは信じられなかった。
上司の恋人は、
良くて一ヶ月に一度、下手をすれば三ヶ月以上に渡って音信普通となってしまう。
恋人不在のその度に、上司は「やれどこにいる」とか、「会いたい」と言い、
仕事に支障をきたす程の熱愛ぶりであるのに・・・。
あぁこれはもう、天変地異の前触れっスかねぇ。
おふくろに電話しとくかなぁ。
「・・・・・大佐、言ったそばから落ち込みになるのでしたら、
そんな事を言われるものではないかと・・・・」
山積みになった書類の隙間から、
ゴソリと上司の黒い髪が動くのが見えた。
長年の副官殿は的確に上司の心をお読になっているようだ。
「ケンカっすかぁ・・・珍しいっすよねぇ」
プカリと煙草を燻らせて、
黒い丈夫な木で作られたデスクに頭を乗っけている上司を見やる。
書類の隙間から頭しか見えていないのだけれど。
デスクに備え付けられていた電話を乱暴に扱ったためか、
受話器はよく見えるが、
その周りの書類の山が不自然に崩れてしまっている。
これも副官殿を静かに怒らせている原因らしかった。
「・・・・しかし、これは言わなければならなかったんだ・・・」
消え入りそうな声で、
それでもとてもはっきりと聞こえた上司の声には、
普段にない声音が含まれており、「あら?」と首を傾げた副官同様に、
こちらも「お?」と驚いた。
上司は、年齢が離れているせいもあってか、
恋人の彼女をとても大切にしている。
相手は甘える事を由としない、力強く前に進み続ける女性であるから、
少しでも自分が居場所になれればいいのだがと、以前溢していた事があった。
自分に利益の還元しないことには、
動こうとしない上司が、唯一と言っていいほど彼女のために心を砕いていることを
彼の部下として付き合ってきている自分にはよく分かっていた。
その彼が、「ここにもう来なくていい」と言うほどの事。
いつもは「大佐が怒らせるからでしょうが」と相手の肩を持つだろう自分も、
今ばかりは、「どうした・・・・大将?」と彼女が何かしたのではないかと疑っている。
冷たい氷を溶かすためには、
春の暖かさが必要。
「おっ邪魔・・・・します」
訪れた東方司令部は、およそ二ヶ月ぶり。
夜行列車を乗り継いで、やっと訪れた11時過ぎ。
弟に宿の手配を頼んで、報告書を言い訳にして急いでその場所を目指す。
3日前。
切られてしまった電話の相手は、
まだこの執務室にいるだろうか。
遠い北部の田舎から、
あの電話の後でずいぶん無理をして駆けつけたのだけれど、
司令部から遠すぎる道のりは3日間の時間を要した。
キィと開く扉の先に、
細く光りの線が延びていく。
薄暗い廊下の中にいた自分の前に、開けていく見慣れた光景。
広い部屋の中に、窓を背にして座っている男。
青空のような軍服と夜の闇のような黒い髪。
動き続ける手にはペンが握られているだけで、商売道具の赤い円が書かれた手袋はしていない。
サラサラと動き、手を止めては書類を整え、
決済済みの書類ケースの中に入れていく。
無駄のない、静かな動作が繰り替えされている。
きっと彼はこちらの存在にもう気が付いている。
軍部の頂点を目指し、異例の出世を果たしている彼が、
どうしてここまで近づく相手に気付かないでいようか。
扉まで開けた自分に、
彼は気付いた素振りも見せず、ひたすらに書類と向き合い続ける。
『やぁ、鋼の』
片手を少しあげるようにして、
目がトロリと溶けてしまうかのような笑顔が好きなのに。
「・・・・・入るのか、入らないのか、はっきりしたまえよ。
そこに立たれていても迷惑なのだがね」
違う・・・。
あんたのそんな声を聞くために帰って来たんじゃないよ。
迷惑だと言われている場所から、
離れたくても身体が凍ってしまったかのように動かない。
ドクドクと心臓だけは早く脈打って。
「・・・・・・・鋼の」
はぁとため息が聞こえた。
ねぇ、ねぇ。
嫌になった?もう嫌いになった?
こんな・・・・こんな私を。
お願い拒絶しないで。
カツカツと響くのは靴音。
動けない自分の代わりに彼がこの扉をしめてしまう。
『もう来なくていい』と言われたままに、
もうこの部屋に入ることを許してはくれないのだろうか。
カツ・・・カツ・・・カツ
ぎゅっと瞳を閉じる。
いつも優しかった瞳が、細められてこちらを睨んでいたら。
そんなのは見たくない。
ゆっくりと手が伸ばされる感じがして、
身体はビクリと震えた。
この扉がしまってしまう。
「・・・・・まったく・・・君は」
フワリ
「えっ?」
伸ばされた腕は、横の扉ではなく、
肩を優しく引き寄せた。
その先は、彼の腕の中で、そのまま抱きとめられる。
「そんな風に泣きそうな顔をされては、
どうにも我慢できない・・・・怒っているのだよ?これでもね」
髪に頬を寄せるようにして、きゅっと抱きしめられる。
彼の軍服から香る香りに、どうしようもなく、彼を感じてしまう。
3日前。
自分が発した言葉は、とても自然に口から出てしまったもので。
それでも、それを彼は受け入れようとはしなかった。
「・・・・・もう、お願いだから、あんな事を言わないでくれ」
その声があまりに必死に聞こえて、
胸が苦しい。
抱き込んだ背中に手を伸ばして、彼の軍服を握り締める。
ごめんね。
口に出して、あの言葉を否定することは私には出来ない。
それでも、この腕の力でこの思いが伝わればいいのに。
『賢者の石は今回も駄目だったかい・・・・残念だね』
『うん・・・・でも、俺は必ずアルを元に戻すから!!!』
『・・・・無理はしないように、君がとても大切なんだから』
『でも・・・・俺は・・・・自分よりも。
必要なら、俺を等価にして』
ごめんね。
でも・・・・きっと元に戻って。
戻って貴方のところにいるから。
それを私も願っているから。
貴方が一番だよと、言うことのできない。
今の私を許してください。