それはいつもこの胸にあることだけど。

それでも伝えられるその日に一言を。

 

 

 

 

 

「・・・・ロイ、相談なんだけど」

 

 

仕事が終わったのがすでに退出時間で、

自宅に戻ったのはとっぷりと夜の闇が近くなった頃だった。

 

夕食は軽く済ませて、寝返りを打てるようになった娘を座った足の上に乗せてあやす。

きょとりと見上げる瞳は自分と同色のもので、愛おしさも一入だ。

・・・妻の金色の瞳も捨てがたいものではあったけれど。

 

食後の紅茶を淹れて戻った妻は、

稀に見るほど緊張した面持ちで、娘と絨毯の上に座っていた私の前に正座した。

リビングのテーブルの上には湯気の立つマイセンのティーカップが2つ並んでいる。

 

じとっと汗が背中を滴る気分。

 

「あのさっ」と言い難そうに言葉を紡ぎ出す妻の言葉は、

自分に何を伝えようというのか。

 

 

女性関係ではない。

それは断言できるほどに私は妻以外眼中にないし、

ここ最近は仕事も忙しく、サボリの為に市街に出る事すらまま成らない状態だ。

 

・・・・育児、家事に対しての貢献は、昨今減ってはいる。

仕事の忙しさを理由に挙げたいものだが、それは理由にならないのではないか。

あぁ・・・私の怠慢だろうか。

これからはもっと家庭に入って行かなければないないだろう。

幼子の世話を一手に任された妻の不安を軽減させなくては。

 

 

「エディ・・・すまない。これからはもっと家庭のことを」

 

「うん?あっいや、ロイに対して不満があるわけではないんだ」

 

こちらの言っていることが分からないと首を傾げた後で、

妻は「そんな事ではないよ」と慌てて手を振って否定する。

 

 

「・・・・では?」

 

「う〜ん」と目線を動かした後で、

上目遣いの妻を見て、「ごくり」と喉を鳴らす。

 

 

 

「・・・・あのさっ相談・・・なんだけど。・・・・・実家に・・・帰りたくて」

 

 

「エディ?!べっ別居かい?!!!!っそっそれは!!!!」

 

「いや、違うから。そんなに焦るなよ・・・」

 

 

暖かいリビングの空気が3℃以上は下がったと思う。

焦りに焦った。

 

それに加えて、足に乗っていた2人の娘が、大きな声にビクッと体を振るわせたかと思うと、

黒い瞳から大粒の涙を溢した。

 

 

「「びゃぁぁぁ〜ん」」

 

 

娘の泣き声にどうしようかと再び焦る。

 

「あぁ・・・困ったお父さんですね・・・よしよし。大丈夫だからね」

 

焦ってしまった自分を前にして、妻はため息混じりにこちらに手を伸ばす。

 

正面の正座から足を解き、妻は傍に寄ると、娘の頭を撫でてやった。

両腕に抱き込んで、えぐえぐとしゃくり上げる娘のお尻の辺りをポンポンと叩いてやる。

困り顔なのに、どこか幸せそうな顔の妻を見て、

ホッとすると同時に、どうやら本当に別居の心配はなさそうだと安心する。

 

 

「・・・エディ?別居ではないなら、実家に戻るとはどういうことだい?」

 

改めて声を整え、妻の言葉の真意を聞くことにした。

少しの沈黙の間には、娘のしゃくり上げる音とポンポンという音だけ。

 

いくらかそうしていた後で、娘が泣き止み、

妻は顔を上げて、恐る恐るといった感じて、声を出した。

 

「あのさっ・・・今度の休日って、【母の日】だろ?」

 

「あぁ・・・そうだね」

 

リビングの壁に掛けてあるカレンダーを見れば、

第二日曜日に赤い花の絵が書かれてあった。

以前このマークが【母の日】なのだと確認していたので、今週末に間違いない。

 

「だから、リゼンブールに帰ろうかと・・・・思って。

今までは母さんに、後悔とか、懺悔とかさっ・・・そんな事ばっかりを伝えていたけど、

 ちゃんと【ありがとう】って言いたいなって。

 ・・・・母さんが産んでくれたから、この子たちに会えたし。

 母親になって、母さんに伝えたい気持ちも増えたし・・・照れ臭いけど」

 

 

 

涙の治まった娘は、泣きつかれたのか遊びつかれたのか妻の腕の中で、

こくりと頭をもたれさせていた。

頬を赤くしながら、よしよしと眠った娘の頭を撫でてやる妻。

 

 

自分の恋人で、奥さんで、娘の母親である目の前の女性は、

『娘』であった頃にとても辛い体験をして。

それでも前に進んで。

 

 

 

 

誰かに感謝を伝えること。

誰かを心から愛すること。

誰かと一緒に歩めること。

 

 

 

 

あの周りが全て敵に見えても仕方ない状況であっても、

それらを忘れずにいた妻を誇りに思う。

打算的な大人を前にしても、本当に。

 

そうして、そんな彼女を創り上げていた根本の愛情を与えていたのが、

彼女の【母】であったのだろう。

 

 

 

「そうか・・・では、一緒にリゼンプールに行こうか」

 

「あっいいんだ。俺だけで・・・一緒には行きたいけど、

 ・・・・ロイ仕事忙しいだろ?」

 

 

「そんなつもりじゃなかったんだ」と腕を振れない代わりに(腕に娘がいるため)

首をふるふると振り、1人か娘と3人で帰るからと言う妻。

 

・・・なんとなく疎外感だ。

やはり仕事のし過ぎだったのだ。

 

「週末までにはこの忙しさも一段落するから。

 今までの休日も兼ねて、ゆっくりしようじゃないか」

 

 

私は休暇をとる。

これはもう決定だ。だれが何と言おうと。

妻の里帰りに付き合えず、何が夫か。

・・・・・・事情を話せば、あの副官も了承してくれる・・・はずだ。

 

 

 

「本当っ?!!!っと・・・・あわっ」

 

 

急に大きな声を挙げてしまったので、再び妻の腕の中の娘が、

ビクリと体を揺らした。

「ごっごめんね」と妻はゆっくりと娘の体をあやしてやりながら、

ポンポンと手を当ててやった。

幸い娘が泣く事はなく、そのまま夢の中に留まってくれたようだ。

 

 

 

「困ったお母さんです・・・ね」

////ロイのバカ」

 

 

妻の腕にいる娘の髪を撫でてやりながら、

先ほどの仕返しとばかりに言ってやる。

べぇと舌を出して反撃した妻と目が合って、互いにクスクスと笑い出した。

 

娘が起きてしまわないように、小さく。

 

 

 

君の故郷に行こう。

腕の中に大切な家族を抱きしめて。

感謝と愛情をたっぷりと伝えよう。

 

 

 

いつも心の中にある【ありがとう】の気持ちを、

この日は言葉に出してみよう。

少しだけ照れ臭いけれど、それでも心は暖かくなる。

 

 

 

 

『いつも愛してくれてありがとう』

 

『私も貴女が大好きです』

ロイエド子

伝えたいことがあるんだ