なんだかだって、月がきれいだから。
「今日は遅くなるかも知れないから、先に寝ていてと言ったのに」
玄関先の門に植えてある庭木の間から、ひょこりと顔を出す。
夜になっても蒸し暑さが残っているので、夫は頑丈に作られた軍服の上着を腕に持っていた。
遅くなるかも知れないと言っていた夫を待っていたというよりも、
起きていたらそんな時刻になっていたというだけなのだが、
何やら怒っているような口ぶりの夫はそれでも笑っているのでくすぐったい。
庭に灯した明かりは足下を照らすような小さなもので、
月明かりによって広い庭は夜が深いのに明るい。
いつもは一緒に食べる夕食は、相手がいないと張り合いもなく、
適当に在り合わせのもので簡単にすませた。
洗い物も終わって、食器も棚にしまって、
テーブルの上を拭いて、今日の新聞をケースの中に入れる。
そしてお風呂にでも入ってしまえば、後は本格的に眠るだけになってしまう。
書斎に行って本を読んでもよかったのだが、
手持ちのものは全て読んでしまったし、図書館で借りたものも午後には読み終わっていた。
「さてどうしよう」と誰もいないリビングで言うものの、
それすら虚しい。
結婚する前までには考えもしなかった時間の使い方。
それは自分にとってとても苦手な分野なのかも知れない。
そうして、ふと目がいったのが庭だった。
本当に何の気なしに目をやると、いつもより明るく庭にある芝が映った。
そう言えば今日は。
「どうしたんだい?珍しいね、テラスに出ているなんて」
テラスには木製のテーブルと簡素なイスが揃いで置かれている。
夏にはそこで夕涼みや昼間にレモネードを淹れて休んだりする場所で、
冬には用途は少なかったものの、これからはお世話になることが増えるだろう場所。
軍服をパサリとイスの背に掛けて、その体も一緒に預ける。
2つ並べたイスと真ん中には木製のテーブル。
その上にはガラス細工のキレイなワイングラスがある。
「さらに珍しい。何を飲んでいたんだい?」
どれ一口と言うようにして、クイっとグラスを傾けた。
薄い色をしたお酒は夫の口の中にすべりこんだ。
「さくらんぼのお酒。前に買ってきてくれたろ?」
「あぁ、あれかい」
「そう。甘くて美味しいよ」
「そうか、それはいい。また買ってこよう」
夫には少し甘かったのだろう。
けれどシュワリと弾ける炭酸と、甘すっぱいさくらんぼの相性はよくて、
これなら自分でも飲めるなぁと思う。
「今日は明るい月夜だね」
「あぁだって今日はワルプルギスの夜だから」
「ワルプルギスの夜?」
そう。
古いふるい言い伝えの残る夜。
「明るいなぁと思って。火祭りを思い出すだろ?」
ある地方の山の上。
ブロッケン山に集まる魔女たち。
悪魔と踊り、その夜は更けていく。
「春の到来を祝うって言うけど・・・十分暑いな・・・今日は」
「ここから魔女が見えるのかい?」
くくくっと楽しそうに笑いながら、夫はお気に入りのブランデーを片手に、
リビングから繋がるドアを通ってテラスに降りてきた。
やっぱり、さくらんぼのお酒は甘すぎたらしい。
再びイスに腰掛けて、トクトクと琥珀色のブランデーを大きな氷が入っているグラスに注ぐ。
「こんなに月が丸いとさ、なんか飛んで着そうじゃない?」
夫がご機嫌らしいので、こっちまで浮かれた調子になってしまって。
甘いお酒に口をつける。
「魔女かい?」
「・・・・悪魔かも知れないけど」
「まぁどっちでもいいが、こんな夜に君と酒を飲むのは悪くない」
グラスを差し出すので、こちらも。
ガラス同士がぶつかって、チンっと小さく高い音が響いた。
魔女でなくて良かった。
だって、悪魔と踊り夜を過ごすなんて勿体無い。
こんなきれいな月夜の隣を、
悪魔なんかに譲ってあげたくなんてない。
そんな、ワルプルギスの夜。