渡された想い出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おぉ・・・い、仕事?」

 

 

 

小さくノックの音が響いた後に、控えめに囁かれた言葉。

書斎の明かりが廊下の先に伸びているのだろう、半分だけ顔の色が変った妻がこちらを覗いている。

 

 

 

明日の朝に必要な書類が急に増え(まぁ、狸どものいらない妨害工作だが)、

娘とのほんわか夕食タイムを返上して書斎に篭っていたのだった。

カチャリと音がするので注意して見れば、妻の手にはトレーがあり、夕食を運んでくれたのだと分かる。

 

「あぁ!すまないね・・・・ありがとう」

 

急いでドアを開け、トレーを受け取ると、丁度自分の唇の先にある妻の髪にキスを贈る。

ホワリと湯気が立っているシチューを除く、コーヒーとサンドイッチは食卓にはなかったもので、

私の為に別に作ってくれたのだと知り、すまないなぁという思いとともに、嬉しさがこみ上げる。

 

 

「在り合わせだけど・・・まぁ、つまんでよ」

 

「こんな時にも君の手料理が食べられるなんて、嬉しいよ」

 

 

それはお世辞でも何でもなく、本当の気持ちで。

慌しく一人身で過ごしてきた時は、パンを齧るか注いだ飲み物ぐらいしか摂取していなかった。

それをなんとも思っていなかったけれど、そう感じることも出来なかったのだと、今なら分かる。

「一緒に食事ができない」事が寂しいと思えるし、「暖かい食事が美味しい」と思える。

それはどんなに幸せなことだろうか。

 

 

「邪魔にならなくてよかった、ちょうど良かったみたいだな」

 

「うん?あぁ・・・・」

 

 

妻の視線が書斎の上の万年筆を見ての言葉だと気付いた。

黒く光る上質のそれは、確かに書き味は天下一品な高価なモノで、

尖ったペン先も、今はキャップによってその姿を隠してしまっていた。

 

それを見て、妻は「ちょうど良かった」と言ったのだろう。

 

 

「・・・これは、ちょっとペン軸が折れてしまったのだよ」

 

 

高価な品であるというのに、書き続けた書類の量に比例して脆さを増して、

とうとうこの忌々しい書類の処理によってポキリと折れてしまったのだった。

もともと筆圧が高いのだろうかと考えるが、まぁ、それは仕方ないだろう。

 

 

「代えあるのか?」

 

やれやれといったふうで妻は折れてしまったペンを手にして、クルリとそれを回した。

その動きは、とても馴染んで見えて、その行為が初めてではないことを知らせる。

 

 

今では家事に育児に慌しい妻ではあるが、

彼女はれっきとした国家錬金術師の資格を有したその人であり、

今でも生体錬金術師の分野においては一目置かれる存在となっている。

 

 

彼女の手にペンが馴染んで見えるのは、当然のことなのかも知れない。

 

 

「そうだ・・・エディのペンはどこにあるのだい?」

 

「俺の?・・・・日用に使ってあるやつ?」

 

 

クルリと回されていたペンを掌に持ち、うん?と顔を向ける。

その顔は久しぶりに見た幼い顔で、懐かしいようにも感じてしまう。

 

 

「いや・・・・旅をしていた時のペンはあるのかい?」

 

 

彼女が旅をしていた時に使用していたペンはどうされているのだろうかと思ったのだ。

もしかしたら、それはペン先が潰れてもう捨てられてしまっているかも知れないけれど、

彼女が辛い時に、その解決のために欲した知識を表していたそのペンはどうされているのだろうか。

 

 

「・・・・あるけど・・・・使うか?」

 

 

じゃぁ、取ってくるよと妻は部屋を出ようとするので、慌ててその後を付いていく。

彼女は引越しの際にあまり荷物を持ち込んではいなかった。

実家からの引越しではなく、旅から旅の生活から定住の生活への引越しであったから、

「あまりないんだ」とは言っていたが、その後、彼女の故郷からいろいろと届いた以外で、

彼女の荷物というものは無かったように思う。

 

 

 

トトっと2つ先の部屋に行く。

それは夫婦の寝室ではなく、いずれは娘たちの部屋にしようかと言っている部屋で、

今はあまり使わないものが置かれている部屋となっている。

 

 

パチリとつけた明かりは、あまり使われてないので部屋の明かりよりも幾分明るく感じ、

妻の行く先を照らしている。

 

「なんか恥ずかしいな」と妻は言いながら、

キィと開かれたのはクローゼットの中から小さな箱を取り出した。

 

その箱は特別に買ったような印象のものではなく、

お菓子や玩具の箱のように小さく、折り紙の飾りが似合うような印象であった。

 

 

それを愛しそうに一撫でしてから、彼女はそっとその箱を開けた。

 

 

 

箱の中には、白い手袋とボロボロになった手帳、そして赤いペンが入れられていた。

一見して、彼女が旅をしていた時に持っていたものだと分かる。

 

 

 

「・・・・なんかさ、捨てるのは・・・さ。未練とかじゃないけど」

 

 

彼女はすでに血の通う生身の腕をしていて、その手に手袋をする機会は随分と減っている。

どうしても得なければならない知識を書きとめていた手帳は、表紙がボロボロになっていて、

付箋が今も外されていないことが分かる。

 

 

ほら、と渡されたペンは深い赤色で、

手にするとしっかりと自分の手に馴染むような不思議な感じがした。

 

 

 

 

 

 

「使うのが勿体無いな・・・・」

 

「いいよ、ロイが使うならペンも喜ぶだろうしさ。使ってよ」

 

 

ふふっと笑ってから、妻は小さな箱を閉じ、大切そうにそれを再びクローゼットにしまった。

 

 

 

 

 

使っても良いと渡されたそのペンを自分はどうしても使えず、手にしている。

目の前の書類はあと少しで終わるまできていて、確かに明日までに必要なものではあるのだが、

あの狸たちに渡された書類の為に使ってしまっていいものだろうか。

 

 

 

旅の思い出というにはあまりに重たいそのペンは、どんな思いを妻とともに送ってきたのだろうか。

 

 

どうしてもたどり着けない真理に対して無力に嘆いた日も、

「軍の狗」としての研究報告や査定を記した時も、

もしかしたら、使われていたこのペン。

 

 

 

このペンを使うに相応しいその日は別にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

「エディ・・・すまないが」

 

「ん?仕事終わったのか?」

 

 

娘をベビーベッドの上であやしながら、リビングで洗濯物を畳んでいたのだろう妻は、

こちらを見て首を傾げた。

 

 

 

「すまないが、他のペンを貸してもらえるかい」

 

 

「あれ使えなかった?」

 

 

 

 

 

 

「いや・・・・・・・あの万年筆はもっと特別な文字を書くときに使おうと思ってね」

 

 

「特別?」

 

 

 

 

 

 

君の願いが叶った時もきっと傍にいたペンで、私は初めてのサインをしようと決めたんだ。

 

 

 

 

 

 

「大総統の名を記すときにね」

ロイエド子