ずっと待っていた。

 

私だけを見てくれる人。

私だけを愛してくれる人。

 

暖かな家庭。

迎えてくれる家族。

 

 

そう。

それをずっと望んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

■ ヤギがオオカミに嘘をついていた ■

 

 

 

 

 

 

 

 

白い病室。

 

どこまでもが見渡せてしまうかのようだ。

 

 

 

もうすぐ彼がやってくる。

きっと不機嫌な顔をしているに違いない。

それとも苦笑いだろうか。

父や官僚に向けるようなあの。

 

 

 

物心付いた時には、「お前は有能な男の妻になり、この家の繁栄を助けるのだ」と、

父に言われていた。

父は、現在、国軍将軍の地位にあるが、

若い頃はとても苦労してその地位を獲得したらしい。

 

賄賂などは当たり前、露見すればその地位を追われかねない危険な事も沢山したらしい。

人の生き死に関することさえも。

 

 

私の伴侶など、父が決めるものだとずっと思っていた。

だから、私立の女学校時代の同級生が「きゃあきゃあ」と異性について話し、

告白しただのされただの、そんな話はどうでもよかった。

 

 

私はあなた達と違う人種なのだから。

 

いずれは父の紹介する、将来を有望される殿方と恋をし、

そして家庭を作る。

 

馬鹿みたいに「恋」だ「家庭」だと思っていたのは、

父と母がそれでも恋愛を実らせ、ともに仲睦まじい姿を見せていたからだろう。

政略結婚のそれであろう私でも、そんな事に幻想を抱いていたのだ。

 

  

 

そうして、そうして出会ったのは一人の男性。

 

 

黒髪に黒目。

父曰くとても将来を期待される。

一部ではいずれ大総統にまで上り詰めるのではないかとまで噂される男。

 

 

噂は噂で、私にも聞こえていた。

 

それは彼がとても女性にもてるということ。

何人もの女性と夜を共にし、そして愛を囁く。

 

 

あぁ、私はこの人の妻になるために。

そのためにずっと過ごしてきたのかしら。

 

 

確かに整った顔をして、

掛ける言葉はとても優しい。

作法も身のこなしも無駄が無い。

 

 

そう。

まるで人形。

 

この人は、決して声を荒げない。

この人は、決して私の前で無様に泣いたりしない。

この人は、私に笑いかけてくれはしない。

 

 

 

一瞬の虚しさが心に雪崩れ込む。

 

 

あぁ、私はこんな出会いを望んでいた訳ではない。

 

 

 

恋がしたい。

愛されたい。

抱きしめて欲しい。

 

 

 

 

 

カチャリと病室のドアが開く。

そこには少し髪を乱した男性が立っている。

黒い髪に、黒い瞳。

 

ずっとこの人の隣にいたと言うのに、

隣に立っていたというだけ。

支えあってなどいなかった。

 

 

 

「・・・・こちらに来てよろしいの?

 てっきりもう来てくださらないかと思っていましたのに。

髪が・・・・乱れてましてよ?」

 

 

何にそんなに必死になったの?

私の出産の時だって、そんなに慌ててはくださらなかったのに。

 

 

「君に言いたい事がある・・・・聞いてくれ」

 

 

「あらっ?私にお話くださるなんて、結婚以来初めてですわ」

 

 

神妙な面持ちで、こちらを射抜く黒色の瞳。

そんな顔してみせても怖くなんてないわ。

 

 

貴方は何も私には話してくれなかった。

私の話も聞いてくれなかった。

ただ形の上で、とてもいい夫婦とやらを装っていただけ。

 

 

 

「けれど、私からお話しても宜しいかしら」

 

 

 

あぁ、これも初めてね。

貴方に私の話をするなんて。

 

 

「あの子。貴方の子どもではないわ。

 ・・・・気付いていらっしゃったのに、何故、何も言ってくださらないの?

 気付いてなかったとでもおっしゃるつもり?」

 

 

一瞬の沈黙の後、彼は答えた。

 

「・・・・君が産んでくれたのなら、それでいいと思った」

 

 

「あら最低。こんな言葉使うなんて初めてですけど。

 最低・・・・私もですが」

 

 

「自分でもそうだと思う・・・・命はそんなに軽んじてよいものではなかった」

 

 

 

 

私が男の子どもを身篭る事などあるはずがないのだ。

 

 

男は私を抱きはしなかった。

遅くに家に帰っては、別々の寝室で時を過ごした。

 

 

どんなに惨めなことか。

どんなに辛かったことか。

 

女として見てもらえない日々は、

父親からの「子どもはまだか」との声とともに、

ただ空虚に過ぎていった。

 

 

彼は、1人で満月には酒を飲む。

何かに重ね合わせるようにして、1人で。

 

 

 

そんな時だった。

身分を隠したパーティーに旧友とともに出かけた。

いつもは断るそれも、退屈な日常の中に参加を決めたものだった。

 

 

薄いベールを被り、いつもとは違うドレスを身に纏った。

清楚でなくては成らなかった自分の本当の好みのもの。

 

 

父親も学歴も作法も教養も。

 

私を飾り立てていた全ての物から解き放たれたように思った。

そんな事は誰も尋ねはしない。

ただ、享楽に踊って歌うのだ。

 

 

 

 

「貴女の声はとても綺麗ですね」

 

声など褒められた事はなかった。

小さい頃は好きだった歌も父から「そんなに前に出なくとも、清楚に立っていなさい」と

窘められ、ピアノは習っても歌はそれから歌っていない。

 

本当はすごく好きだったけれど。

 

 

「ご無理でなければ、貴女と少しお話がしたいのですが」

 

嫌だという理由などどこにもなかった。

少なくとも黒い髪もその瞳も頭の中に過ぎることはなかった。

 

 

 

他愛の無い話。

冗談を交えて笑い、本当の自分の声で歌った。

 

彼は中流階級の商家の息子であった。

それでも、自活するために修行の最中で、

自分の手は繊維染物の仕入れの為に、

とても汚れてしまって恥ずかしいと私に爪の染まった手を見せた。

 

 

 

その時の私の胸を過ぎったものは何だっただろう。

 

 

なんとその紫色に染まった爪の愛しいこと。

その腕に抱かれた自分を思い胸は高鳴り。

彼が自分を望んでくれたのなら、どれほど嬉しいだろうと考えた。

 

 

 

 

 

そんな彼と付き合うように成るには時間は必要ではなく。

 

初めて「恋」という言葉を頭に直接叩き込まれたような。

人を愛して泣けるような。

こんな幸せがあったのかと、暖かい腕につつまれた。

 

 

 

 

 

程なくして自分が妊娠している事を医者から告げられた。

 

 

 

医者は父を知っていて、「おめでとうございます。お父様もさぞお喜びに」と皺のある瞳で

そう告げた。

 

 

 

 

望んだものは。

 

 

暖かい家庭。

愛される自分。

 

 

 

急に背中を駆けるものがあった。

彼と幸せに成れるなどとありはしないのに。

 

私には夫がいた。

将来を約束された出世頭で。

いずれは大総統かと噂される人物。

 

形だけの良い夫婦。

 

 

 

 

何と言うだろう。

抱きもしない妻に子どもが宿るはずはない。

不倫はいずれバレるだろう。

 

 

父はどうするだろう。

夫はどうするだろう。

 

 

 

この子はどうなるだろう。

 

 

 

 

「やぁ、マスタングくん。おめでたい事だ!!!」

 

「・・・・・何の事でしょう」

 

「なに?娘に聞いていないのかい?

 とうとう私もおじいちゃんか!!嬉しい事だ」

 

 

 

「子ども・・・・?」

 

 

 

その時の夫の・・・・男の顔は。

 

全てを分かって。

チラリとこちらを見ただけで。

 

 

「そうでしたか。ありがとうございます。

 それはとても嬉しいことです」

 

と言った。

 

 

 

 

この男には自分とは違う心に住まわす誰かがいるのだ。

そんな事はずっと前から分かっていた。

 

 

分かっていたのだ。

 

 

私に関心などなく、妻といっても形だけ。

父にとっての家の為の婚姻であったように、

この男にとってもそれは政略結婚以外の何でもなかった。

 

 

 

 

 

「私には、ずっと想っていた人がいた。

 それに自分は目を背け続けていた。ようやく・・・・それに気が付いた」

 

喉に声を詰まらせて。

そんな風に話す貴方を私は知らない。

 

こんなに短時間で、

貴方の知らなかった表情を幾つも見ていることに驚く。

 

結婚してからの年月、

私は貴方を人形のような人だとずっと思い続けてきたけれど。

 

 

 

貴方でもそんなに辛そうな顔を見せるのね。

誰かを心に住まわせて、それから逃げているのは、

どれ程辛かったことでしょうね。

 

 

気付いていなかったと言ったけれど、

心はきっとそうではなかったのでしょうけれど。

 

 

 

「都合が良いと思われても仕方ない。

 けれど、自分はもうこの気持ちを抑えられない。

 ・・・・堪らないんだ」

 

 

 

「可哀相な人。えぇ本当に。

 こんな私に頭を下げて、不倫をした私を許さず、切り捨ててしまえばよろしいのに。

 そして、想う人と一緒に歩かれればいい」

 

 

 

男の人とはどうしてこんなに不器用なのかしら。

好きだと思った人を遠ざけて、

好きでもない女と結婚して、手を触れずずっと過ごすなんて。

 

 

 

なんて。

可哀相で弱くて、そんな生き方をする不器用な人なのかしら。

 

 

 

 

「私はずっと逃げていた。

 相手にとって、自分は何もしてやれないと。

 逆に苦しめるだけだろうと、そう思い続けた。

 けれど、離れることを許すことすら出来ないで、もっと傷つけた。」

 

 

これは彼の懺悔。

そして、私の懺悔だ。

 

 

そう。

私だってどうにもならない事をあの子にぶつけた。

彼が大切にしている人を見つけてしまった。

 

 

すぐに分かってしまって。

それなのに、まったく気付いていない素振りにイライラした。

 

守られて、想われているのに。

私の得られなかったものを受けられるというのに。

 

 

どうして気付かないのか。

 

 

「・・・・・この手で幸せにしてやりたい。

 居なくなるかも知れないなんて耐えられない。

 それが・・・よく分かった」

 

 

幸せにしてあげたくて、

幸せになりたくて。

 

そんな当たり前で、単純で。

そんなことが出来ないなんて。

 

 

大人はとても不器用だ。

 

 

 

「私も・・・・幸せになりたい。幸せにしてあげたい。

 だから・・・・・・・・」

 

 

 

「君と会えた事にとても感謝している。

 けれど、共に歩くことは出来ない。

 ・・・・・別れてほしい」

 

 

 

 

意味ある決別をしましょう。

 

私たちは重ならないはずの道を歪めて歩いてきた。

だから、その道を直そうと思う。

 

 

舗装された道ばかりを歩いてきた私だけれど、

その道はとても真っ直ぐ過ぎて、木陰で休むことさえ知らなかった。

 

 

少しずつでいい。

自分の道を作りたい。

そこに想う人の道が繋がればいい。

 

 

 

STOP」の標識はここまで。

これからは自分で道のレンガを積んでいくわ。

 

 

「私も・・・・貴方に会えたことをとても感謝しています。

 幸せになってください」

ロイエド子