指に小さな輪っかを1つ
外は薄い紫色がなびいている。
まるで煙草の煙を燻らせたような紫煙の空。
月の頃はもう訪れているというのに、ボンヤリとした光りしか届いてはこない。
二階の静かな寝室の窓には淡いブルーのカーテンが掛けられていて、
ゆるやかなカーブを描いて窓からの景色を遮るかのように存在していた。
もうすぐ外に冬の寒さがやってくる。
風が随分と冷たい。
冷たいシーツに足を伸ばして、その感触を楽しむようにして身じろぐ。
手を伸ばした先には暖かい人の温もりが確かにあった。
ねぇママ。
まどろむ瞳をゆっくりと開く。
視線の先には同じ布団に包まっているはずの娘がキラキラとした瞳でこちらを見つめる様子がある。
ママの指輪はとてもきれいね。
まるで天使がくれた輪っかみたい。
外す事のない薬指の指輪を意識しないで随分の時が流れていた事を知る。
まるで空気のようだ。
まるで貴方のようだ。
くすくすと笑いながら娘は頭を自分の胸の中に寄せて、手を伸ばし指輪をゆっくりと撫でた。
銀色の細いシンプルなその指輪を。
ねぇママ。
これはパパがくれた指輪なの?
娘が胸の上でコクリと首を傾げてこちらを窺っている。
お喋りが上手になってから、娘はよく父親の話を聞かせて欲しいとねだっていた。
それは母親である自分にだったり、訪れてくれる父親の生前の部下であった人たちに。
部下であった者達は今だ軍属を離れていない者が多い。
もともと優秀な人たちばかりであったから、望めばもっと上の地位にいけるのだと思うのだけれど、
「大佐と呼ばれるのは」と苦く笑い、誰もがその地位に辿り着くに至っていない。
彼らがこの家(家長を失いながらもその妻である者とその娘の2人が過ごしている場所)を訪れる時は
決まって何かしらのお土産を用意してくれていた。
例えば娘にぬいぐるみであったり、市街の有名なお菓子であったり、部屋を飾る為の花であったり。
そうして、他愛のない話ではあるのだけれど、紅茶か珈琲を飲みながら短い時間を過ごす。
訪れた日の一日に、テーブルに無造作に置かれていた近所の世話好きのおばさんが用意してくれたモノを見て、苦く笑ったのはハボックだったか。
まったく・・・と呟きながら、それでも「もういいんじゃないか」とのニュアンスを含んで。
そんな顔に怒る事もできず、けれど少なからず寂しく思いながら、
自分は曖昧に笑うのだ。
「まだ子どもさんも小さいのだし、貴女も若いのだから」と渡されるソレ。
白くて丈夫な型紙をはぐれば、スーツを着こなした男性が立っている。
まったく無駄だとしか言えないのに。
だって、自分にコレは必要ないものだから。
娘は決まって父親の話を強請る。
だってこの子は1度たりとも父親というものに触れたことも感じたこともないのだから。
それでも。
パパの話をして、というこの子は1度も「パパが欲しい」とは言わない。
きっとその言葉を聞けば自分が泣き出してしまうのだろう事は分かっていたけれど、
自分の勝手な感情をこの幼い我が子に感じさせてしまっているのだろうか。
あなたのパパはね。
とてもあなたを愛していたのよ。
そしてママをとても大切にしてくれていた。
雷の日はリビングに毛布を持ってきて、一緒に包まって眠った。
遠くの稲光を眺めて。
ママはとても怖がりだったけれど、パパと二人だったら怖くなかった。
パパは少しだけ辛いものが苦手だった。
平気な顔をして食べようとするくせに、3口も続けて食べられないの。
それが分かったのは一緒に暮らすようになってからだったけれど、
パパは少しだけ照れて君の作るものなら食べられるって言ったんだよ。
甘いモノが好きで、よくケーキを焼いた。
きっと次の誕生日もクリスマスもずっとずっと食べてくれると思ってたのにね。
ぽたりぽたり
知らずに涙が溢れてくる。
あんなに泣いたのに。
彼がここから旅立ってしまうあの日も。
彼がこの世から消えてしまったのだと聞いた日も。
彼が残してくれた新しい命がこの世に誕生したその日も。
たくさんたくさん涙は溢れて止まらなかった。
ママ。
ママ泣かないで。
私がいるよ。
雷が鳴る日は私がずっと一緒にいてあげる。
辛いのはまだ食べられないけど、私もママの作るごはんが大好き。
ケーキもずっと食べられる。クリスマスもお誕生日もずっと。
私はパパを知らないけれど、パパが大好き。
だって大好きなママをずっと大好きでいてくれるから。
ハボが言ってたの。
パパはきっとずっとママと私のそばに居たかったんだって。
でも、どうしても行かなきゃいけなくて、でも私がいるから安心してるんだって。
ママはとても泣き虫だけど、1人でないから。
だから、私ずっとお願いしてる。
パパに大丈夫だよって言ってる。
ねぇママ。
ママの指輪はとってもきれい。
まるで天使の輪っかみたい。
もしも神様がいたとして、
命を天秤に掛けたとして。
母親がどうしてこんなにも強くなれるのかと問われたら、
きっとこの瞬間がすべてなのだと思う。
神様だろうと悪魔だろうと何にだって負けるわけにはいかない。
こんなにも愛しい存在がまだ私のそばにいてくれるというならば、
私はまだこの場所から居なくなるわけにはいかないのだから。
いつかこの薬指の指輪をこの子に渡す。
この天使の輪っかをこの子が必要になる時がきっとくるから。