【北風が運ぶ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日はドアを少し強く叩く風の音が響いていた。

入り組んだ路地の奥にあるオーディ珈琲店に風が吹き込むことは珍しい。

こんなに強く風が吹き込んでくるということは、通りは随分と嵐になっていることだろう。

風の通り道ができてしまっているのだということを店主であるオーディは通りを見つめながら思った。

 

 

中央で賑わっているテレビなんてものはこの珈琲店にはなく、

地元のニュースや流行の歌、または懐かしの歌が年代モノのラジオから流れるだけであった。

といってもこんな風に風の強い日は電波の状態が悪くなってしまうので、音も随分と聞き難い。

 

 

朝のモーニングの時間もランチの時間が近くなっても、

この日の来客はまだない。

昨日までの注文が嘘のように荷造りの予定もなく、オーディは1人カウンター近くの席に座っていた。

手元には最近仕入れたばかりの珈琲豆から挽いた珈琲が淹れられており、愛用のカップに高い香りを醸しながら存在している。

 

淹れたばかりの珈琲の香りを吸い込んで、新しいブレンドの種類を頭に浮かべると続けてこれを飲むだろう人の事を想像した。

 

高いコクと香りがマッチした珈琲だ。

どんな人がこの香りをそばに置く事ができるだろうか。

どんな場所に必要な香りなのだろうか。

 

 

「ふむ・・・・まだ出合っていませんか」

 

 

オーディは香りを吸い込んだ先に顔を思い描くことができなかった。

それはつまりこの仕入れたばかりの豆はまだ出会うべき人を見つけていないということ。

そして、その相手をオーディがまだ知らないということを意味していた。

 

 

長いこの店の歴史の中にいるどの馴染みの客も、1度足を運んだだけの客の中にも、

オーディが香りの先に思い描ける相手は存在しなかった。

 

 

「暫くは、倉庫の中で熟成ですか・・・ね」

 

 

このオーディ珈琲店では、もちろん客から豆の注文を受けることもある。

しかし、大部分は「いつもの」という事で事足りてしまう注文の仕方であるし、

そうでなければ、「オススメはあるかい」と尋ねる客が大半なのである。

 

 

オーディは客が求めるモノが最上のものであると知っているので、

自分から押し付けるようにして豆を選ぶ事はない。

得てして「自分が飲みたいもの」と思うものがあるならば、それで充分なのだ。

 

たとえその人がクリームがたっぷりのミルクレープが大好きだと知っていたとしても、

今日は朝から甘いモノばかり食べていたかも知れないし、季節のベリーのタルトが食べたいかも知れない。

 

馴染みの客が「いつもの」と頼むのだって、それが飲みたいから頼むというだけで、

オーディが押し付けて淹れようとしたことは1度もない。

 

 

たまに違う味を探しているというのなら、オーディは嬉しそうにこう言うだろう。

 

 

「貴方にとって心地よい一杯を」と。

 

 

そうして仕入れてきた豆を考えれば、オーディはどの馴染みにも似合わないと思った。

オーディが客を選んでいるのではなく、豆が選んでいるのだから、これをどうにかできるとはオーディには思えなかった。

 

 

口に運んだ珈琲をゆっくりと味わいながら、オーディは読みかけの小説を手にしようかと棚に手を伸ばした。

しかし、読書に没頭するには風に揺れるドアの音がいよいよと大きくなってきたようであるし、

この暗さではいつ雨が降り出してもおかしくない天気のようだ。

 

 

オーディは少しだけ考えた後で、今日はもう「CLOSE」の看板を出してしまおうかとその腰を上げた。

決まった休みが存在していないこの店ではあるが、この天気ならば客足は見込めまい。

 

 

キィと小さく音を立てる床を進みながら、風の音がするドアに近づいていく。

 

 

 

 

 

「すみません・・・・少しだけ温まらせてもらってもよろしいか」

 

 

 

 

あと少しでドアノブに手が届くというところで、ドアは急に開けられた。

いつもならば通りからのコツコツといった靴の音は意外に響いて来客を知らせるのだけれど、

この風の音にかき消されていたようで、その来客は突然のモノに感じられた。

 

 

いつの間にか雨が降り出していたのだろうか、ずぶ濡れという訳ではないにしろ、

頭に被っていたコートは所々色を濃く変えている。

 

 

 

「えぇ構いませんよ。外は随分な風のようだ」

 

 

オーディは突然の来客ではあったが、手を差し出して中にお入りなさいと促した。

冬が段々と迫ってくる中の強風だから、随分と体を冷やしているのではないだろうか、

オーディは客をカウンターの席に案内して、早く体を温めるための一杯を淹れてやらなければと思う。

 

 

そうして入ってきた客の様子を、まるで豆を選ぶかのようにして見やった。

その仕草は長年の・・・そう、言うならば癖のような仕草であった。

 

 

最初にオーディの目に入ったのは、黒いコート。

男は濡れてしまったコートの外側を包むようにして腕にかけて持ち直しているところだった。

 

そうして次に見えたのが、目に鮮やかな蒼い軍服。

普段街のなかを警護している憲兵は黒い軍服を着ている。

蒼い軍服といえば司令部内に席を持ち、それなりの地位を有していると考えてよいのだろう。

 

そして、清潔な印象を与える深い夜の闇のような黒い髪と同色でありながら射抜くような力を感じる瞳。

 

 

 

「あぁこの店は珈琲店でしたか。外の風に追われて入ったのもので申し訳ない。

 一杯頂けますか」

 

 

男はきょろりと辺りを見回すと、オーディに向けて申し訳なさそうにそう言った。

この風では珈琲の香りどころではなく、店らしい看板を見つけて、そうして入ってきたのだろう。

そんな男にオーディはゆっくりと言う。

 

 

「いいえ、構わないのですよ。

貴方に心地よい一杯を淹れることができるなら」

 

 

その言葉を聞いた男は、少しだけ目を見開いた。

そうして妙に納得したようにもう一度辺りを見回して、オーディの方に再び視線を合わせる。

 

声はとても穏やかだというのに、どこか冷たい印象を持っていた男が、

オーディに対して、ふわりと顔の緊張を解き、そして「あぁここでしたか」と心からの言葉を発した。

 

 

オーディは納得した様子の男に首を傾げ「何かありましたか」と尋ねる。

男は、「いえ、すみません。随分とこの店を探していたもので。なるほど見つけ難い場所にある」と今度は顔に笑みを浮かべながら応えた。

 

ますます分からないといった表情のオーディに、「すみません」ともう一度男が謝ると、

少しだけ湿った手袋を外し、男は握手を求めながらこう言った。

 

 

「申し送れました私はロイ・マスタング。国軍大佐であり、焔の錬金術師。

 リザ・ホークアイの上司で、鋼の錬金術師エドワード・エルリックの後見人を勤めています」

 

 

 

オーディは今までにない程に驚いた。

それはこの歴史あるオーディ珈琲店を開いてから一番の驚きであるようにさえ思えた。

 

今、目の前で握手を求めて手を差し出している人物を確かに自分は知らなかったが、

それは会った事がないと言うだけで、噂や話にはよく聞いている人物だったのだ。

 

 

噂と言えば、あの悲しいイシュバールの戦争の時からのものから。

話と言えば、彼の身近にいる人物たちによって聞いたものから。

 

 

「あっ・・・いえ、失礼を。私はこの店の店主をしております、オーディと申します」

 

 

混乱している頭は取りあえず後回しにして、

伸ばされ続けていた手にやっとの思いで自分の手を重ねると、男ロイはゆっくりと握手をした。

 

 

 

「やっとこの店に来る事ができて光栄ですよ。

 どれだけ聞いても店の位置はおろか店の名前すら教えてくれませんでしたからね。彼女たちは」

 

 

 

ロイは笑いながら今までの経緯を少しだけ話した。

 

徹夜明けの疲労がたまり出した時に決まって出される一杯。

まだ子どもと言える年齢の少女が眠そうにしている時に差し出される一杯。

 

聞けばどちらも同じ店で購入している珈琲だと言う。

その店は客のリクエストに応えてくれる珈琲店で、店主は決まって言う台詞があるのだと。

 

 

 

「貴方にとって心地よい一杯を」

 

 

 

 

 

「ぜひその店に足を運びたいと尋ねたのだが、どうしても教えてくれなくてね。

 ・・・・まぁその気もわからんではないが」

 

 

ロイが店内を見渡すのはコレで三度目だろうか。

通されたカウンターの席について、グルリと辺りを見てからそういう。

 

 

 

「どういった意味があるのでしょう」

 

普段、客の内情に踏み入ることのないオーディではあるが、

なぜだかそのロイの様子が気になって、素直に聞いてみることにした。

 

 

「あぁ・・・私は根っからのサボリ癖があるようでね。

 こんな穴場の・・・そして珈琲の美味い店を見つけようものなら、

入り浸ってしまうことが分かりきっていたからだろう。うちの副官はとても優秀だからね」

 

 

まるで悪戯を告白するようにして、ロイは茶化してそう言う。

それにつられるようにして、オーディも笑った。

 

 

そうしてオーディは頭に一杯の珈琲が浮かんでいることに気付く。

それはまるでこの時を待っていたのだと囁かれてでもいるかのように、極自然に。

 

 

 

「オーディさん。一杯お願いしたいのですが、何かオススメはありますか」

 

 

「えぇ、貴方を待っていたような一杯をご用意致しましょう。」

 

 

 

 

 

「貴方にとって心地よい一杯を」