秋も深まり隣に植えてある木々が段々と冬支度を始め出したことをオーディは木の雰囲気で感じた。
さわさわと流れる風に揺れる木々の音が夏の日差しを浴びていた頃よりも随分とやさしくなっている。
自家製で焙煎し、もちろん各々のブレンドを楽しむ事のできる珈琲店には、
おおく馴染みの客というものが存在している。
こんな細い細い路地の裏にある店が長く営業できているのは、
珈琲の味に惚れた馴染みの客がいる事とオーディの道楽によってだと言う事は周知の事実であった。
そろそろ温かい飲み物が歓迎される日がやってくるだろうから、
ホットに適した珈琲のブレンドを増やそうかとオーディは麻袋の中から太く育った豆をスプーンで掬い、
幾通りもある豆のブレンドと芳しい香りを想像しながらヒクリと鼻を動かした。
リンリンリン
そんな時に壁に吊るすようにしてある電話が着信を知らせた。
鮮度と味の関係をいつも朗々と語ってしまう癖のあるオーディの事。
馴染みの者達は自分用のブレンドを注文する時にあらかじめこうしてオーディに電話をする。
そうして名前を告げ「いつものモノを頼むよ」とだけ言うのだ。
このやり取りをもしも一見の客が聞いていたとするなら、なんとも羨ましそうな顔をするだろう。
そうして、電話のやり取りを終えたオーディに対して、どのくらいここに通えばそのようなやり取りが出来るのかを口早に問うのだ。
それ程にオーディの珈琲は美味いものであるし、なんともこの年老いた男の馴染みであるということは
一種のステイタスにも似た感情を客に起こさせるのである。
その時のオーディの台詞はいつも決まったもので、
「いつからでもどのようなリクエストでも、珈琲のことなら承りますよ。
貴方の一杯が心地よいものでありますように」とやはり笑顔で答えるのだ。
「はい、オーディ珈琲店ですが」
頭の中には何種類ものブレンドが浮かんでいたオーディだが、電話を取ればその声の主の事だけに頭はリセットされた。
電話先の注文主が一体どのような注文をするのかとまるでサーカスが始まる前のようにドキドキとオーディの胸は脈打っている。
「いつもお願いしてすみません。ストックが切れてしまったのでお願いしてもよろしいかしら」
その声を聞いて、オーディはすぐに相手が誰だか理解する。
女性らしい声だというのに、どこか威厳と自己を感じさせるその声の持ち主は軍人である。
「はい。承りますよ。・・・いつもの胃には負担にならない程度でとても濃い珈琲をご用意しております。」
オーディは少しだけ声に笑いを含んで注文されている珈琲の条件を復唱してみせる。
この注文を最初に受けた時は何とも可笑しな注文だと思ったものだ。
初めての注文を受けたその時は、馴染みの客からの電話を終えた時だった。
買い物がてら寄ったのだろうと予想されたその女性は、店内の豆を見終わった後にカウンターで試飲がてら珈琲を飲んでいた。
本来は豆を売るのが仕事のオーディ珈琲店ではあるが、
試飲を希望する客の為にこうして小さなカフェのようなこともしている。
専らあるのは珈琲だけなのでブレッドなどを持参する客もいたりする。
試飲のための小さめのカップで用意された珈琲を飲み終わると、
軽装に身を包んだ女性が、「どんなブレンドでもよいのかしら」と少し困ったように聞いたので、
「どのようなリクエストでも、珈琲のことなら」とオーディはいつものように応えたのだ。
「実は探している珈琲があって」と切り出された女性の要望は次のようなものだった。
眠気覚ましで飲むような珈琲
毎日たくさん飲むことになるので胃に少しでも優しい珈琲
その女性は軍人で、いつも働き詰めの上司が居て、
「思いっきり濃い珈琲を頼む」との注文を受けることもしばしばなのだけれど、
それではいつか胃の方を壊してしまうのではないかと心配するのだという。
軍支給の珈琲では良い豆からの珈琲ではないから、濃く淹れる度に頭を悩ませているというのだ。
長く珈琲店を営んできたオーディにとってその注文は初めてのモノだった。
しかし、いつも退屈なピエロのトランプゲームばかりを見ていたオーディにとって、
その注文は空中ブランコ乗りやゾウの玉乗りを想像するようなとても楽しい注文であった。
「貴方にとって心地よい一杯を探しましょう」
それから何度か同じ注文を貰えるので、どうやらまだまだ彼女の上司たる人間は激務に追われているのだろう。
「あぁ、それからオーディさん。今日は珍しいお客様が来るのだけれど、
午前の配達に間に合うようだったらもう1つお願いできるかしら」
いつもならそこで話が終了してしまう電話が思わずも長引いてオーディは「おや?」と思う。
「えぇ、配達はこれからですので。で、どのようなモノをお探しですか?」
「実はお客様というのは軍人ではなくて、歳が16の女の子なの」
電話先の女性の声がふわりと柔らかくなるのを聞いてオーディは再び「おや?」と思う。
いつも凛としている声の印象を持つ女性であるからこの変化は珍しい。
「軍にそんなお客さんが来るのですか」
「えぇ、とても可愛らしい女の子で。いつもは紅茶を出しているのだけれど、彼女専用の珈琲を。」
その声はまるで母親が娘に珈琲を探しているような、妹に新しい店を紹介するような。
楽しそうな声の色がこちらにまで伝わってくるようだ。
「では、こちらも余りキツイものではない方がいいでしょうな。
女の子なら香りも珍しいものがありますから、そちらはどうでしょうか」
「後、忙しくてあまり休む事のない子なので、何かリラックスできれば」
「えぇ、承りました。貴方にとって心地よい一杯を」
チンと音を立てて電話を下ろす。
軍に足を運ぶ16歳の少女に少しだけ思いを馳せる。
あの女性が娘や妹のように可愛がっているということにも興味増していく。
それでも「忙しくて休むことがない」と言われていたので、どうなのだろうか。
幼い身の上でなにか軍に関わっているのだろうか。
「おや。私も歳なようだ」
客の事情をあれこれと考えてしまう程に自分は歳をとってしまったようだ。
注文のあった珈琲をカンに入れ変え、新たな注文である少女用のブレンドを開始する。
この一杯でどうか忙しいという少女に心地よい時間がありますように。
「貴方に心地よい一杯を」
【給湯室に一品】