【見えていた景色】 「思考的問題13」

 

 



蒼白な顔に、はぁはぁと荒く繰り返す息。
痛々しい様子に目が細まる。
ドタバタと過ぎていった慌しい時間。

上司は有無も言わせず治療室に入り込んで、名前を呼び続けている様だった。

 


ずっと昔から知っている少女が、上司の妻に成り、
幸せそうにふわりと笑った顔を今でも思い出せる。
いつも走り続けていた少女が幸せに笑えているのだろうと安心していた。
半ば、兄のような気持ちで。

そんな彼女が居なくなったと聞かされて、
もしかしたらと駆けつけた田舎町、ノーランド。


寒々しいそんな場所で、聞いた「危ないかも知れない」という嘘のような話。


まさかと体は固まったが、目の前で蒼白になったこの人をどうにかしなければ。
上官を殴るなんて免職では済まない事だろう。
けれど、ここで動いてくれなくては、貴方を上司と付いていく事は出来ない。


風と雪が降り積もる音がする。


音がこもるようにして建物を包んでいくのだ。
時間はそれだけでしか計れないが、結構な時間が過ぎているのだろう。
上司が走りこんだ両開きのドアを見つめる。
赤々と危険を知らせる明かりが、廊下を照らして、
ブルリと体は寒さを訴えるが、ここから離れる機にはなれなかった。


処置室と書かれランプが赤く光っていた一室の明かりが消える。
座っていた廊下のイスから慌てて立ち上がると、
ガラガラとベッドが運び出されてきた。


細い管や機械装置と点滴。
いろんな者と旦那に付き添われて、少女は現れた。
上司は妻の手を握り、ずっと顔を覗いている。
こちらに気付く余裕は無さそうだ。

マスクを外しながら汗を拭っている女医に声を掛ける。

 


「あの・・・どうなんスか」

「・・・あまりよい状態ではないわ。
 取り合えず流産は免れたけれど、母体の消耗は激しいし、
 これからしばらく予断が許さない状況ね」

 

 

 

 

 

 

        【白い空間】 「思考的問題 14」


 


恐いだなんて。
そんな事言えなかったんだ。
君を失うかもしれない恐さに比べたら、なんでも無かったのにね。
どうかもう一度だけ、私にチャンスをくれないか。


ピクリと金色の双眸が揺れて、そろそろと持ち上がる。


ずっと握っていた手は、同じ暖かさになっていたが、
呼吸の荒さは続いている。


呼吸器は絶えず彼女に酸素を運び、小さな胸は上下を繰り返す。
寝顔をこんなにゆっくりと見たのはいつ以来だろう。
いつも隣に居て当たり前なんて、自分はいつからそんな傲慢な考えを持ったのか。
こんなにも痛々しい妻を見てそんな事に気付くなんて。



「エディ?」

呼び声は震えていて、自分でも苦笑するほどに弱弱しい。
まだ辺りを捉えられていないのだろう、潤んだ瞳は声の方を向いた。

あぁ、胸が震える。
握っていた手を引き寄せて手の甲にキスをする。
何でもいい。今なら神の存在すら自分は歓喜のままに甘受するだろう。

血に濡れた彼女を、処置室で見たとき息が止まるかと思った。
いや、呼吸の仕方など、思い出せなかった。
名前を呼ぶ事しか出来ず、死ぬなと叫んだ。


「・・・ロイ?」

「うん」

 

何度か瞬きをした金色の瞳は、ビクリと振るえ、
握っていた手を払うように動かした。


「エディ?!」

「・・・なんでっここ?」

払われた事に衝撃を受けるも、震える妻の様子が痛々しい。
何も分からないまま、恐怖だけを自分は与えてしまっているのかと、
そう思うと心はギュッと痛みを発した。

          

 

 

 

 

           【知らない曲調で】 「思考的問題 15」

 

 

 


心が離れているかも知れないと思ったのは何がきっかけだっただろう。


もしかして、自分は捨てられるのかも知れないと思った。

 

恐くて、恐くて。

そんな事を愛する貴方の口から言われるのが恐くて。
だから、もう何も考えられなかったけれど、
私は自分から貴方のもとを離れたのだと思う。


会いたいと、追いかけてきて欲しいと思った。
だから目の前の彼は自分が見せる幻覚なのだと思った。
なんて都合の良い視覚なのだろうと、いっそ自嘲したくなったが、
手を握るその暖かさと、少しかすれた唇の感触を、
肌が感じる前に心は捉えてしまって、ざわついた。
途端に泣きそうになるけれど、
それが嬉しさからのモノなのか、判断はつかなかった。


思わず手を払って、心を守る。
だって今でも張り裂けてしまいそうだというのに!!

こんな自分を見られたくは無かった。
自分と違う女性と歩いていた彼を許せないと思った。
嘘を言った彼を信じられないと思った。

一方的に離れていこうと決めたのに、心はまだこんなにも囚われている。
愛に見返りはいらないなんて、そんな事は思えなかった。
ドロドロと見たくない汚い自分がいる。


あの彼の横を歩いていた美しい大人の女性は、きっと思ったりしない。
妻がいる彼でも、他に愛を囁いている彼であっても。
こんな醜い感情ではなくて、彼の求めるモノを差し出すのだろう。
それは妖艶な香りであったり、すべらかな体であったり、優しい腕だったり。
私の持ち得ないものばかりだと思う。


ねぇねぇお願い。
見ないで。ねぇ、見ないでよ。
貴方と約束を交わすことの出来た私はもういないの。
貴方の言葉に頷いて、少し照れてすねたりして。
互いの額にキスを贈り合ったあの暖かな時でさえ、
とても昔の色あせた写真のよう。


もう一度神の罰を受けたのでしょうか。

 



 

          【伝えたい事】 「思考的問題 16」




妻は目を合わせてくれない。
あの吸い込まれるような金色の双眸と、
絹糸のような髪を隠すようにして布団を被っていた。
時折リズムが狂ったように上下する肩に、
妻が嗚咽を絶えている事を知る。


払われた手を見る。
この手を払った時に痛そうに眉を寄せた妻の顔を思い出す。
泣く一歩手前のように歪めた顔。
顔は青白く、病的なもの。


まだ自惚れる事が許されるのならば、
君がこの手を払ったことを痛んでくれているのだと考えてもいいだろうか。
泣いているその訳も。
まだ、やり直すことが出来るのだと、信じてみてもいいだろうか。

布団の上に腕を伸ばす。
手負いの獣に腕を伸ばすのは、噛み切られる事を覚悟しなくてはならない。
それでも伸ばすのは、その先を信じて止まないから。
もしかしたら、その傷をつけた本人であろう私が。
それでも癒す事が出来るのではないだろうかと。

ビクリと震えた体を、ゆっくりと撫でる。
呼吸に合わせてゆっくりと。
祈りの所作であるように、ベッドの横に膝をつき屈む。
ちょうど妻の顔を横で見ることが出来るくらいの位置だ。


「エディ・・・エディ」

「・・・・・」

「私は・・・恐かったのだ」

ここで本心を語ることは、とても恐い事だった。
戦場で戦った事もある。生死の分からないような場面もたくさんあった。
鋭い眼光の上司と冷ややかな言葉のやり取りもしたし、
法を犯すギリギリの事だって何度も。

それでも、ここまで緊張しなかったし、恐くもなかった。

けれど、ここでこのまま時間を過ごせば、
きっと妻は自分の元から離れてしまう。完全に。
それだけは。

見っとも無くとも、恐くても。
それを愛する人に伝えよう。

 

 

 

 

 

 

        【きっかけは優しく・心は激情】「思考的問題17」




ぎゅっと布団を掴んだ腕は、
強く握り過ぎたからなのか、感覚がない。
それとも、そんな事が分からなくなるくらいに、
自分は混乱しているのだろうか。


撫でられた背中が、自分の体ではないように熱い。
目はヒリヒリするし、喉はカラカラ。
頭は、考える事を拒否し続けている。


ゆっくりした声は、いつもの低さではなくて、
布団から頭を出して、そこに居るのが本当にロイなのか
確認したい程だ。
けれど、彼の腕の感触に間違いはなく、そこに居るのはロイ。
ゆっくり、ゆっくり。

話された事は、とても多かった。


自分がとても臆病だったと。
それは、嫌われたくなかったからだと。
今まで付き合ってきた女性と違っていて、とても焦っていたのだと。
結婚して、受け入れられて、満たされると思った心はいつも不安だったと。
手に入れたものが、するりと手から落ちてしまうのではないかと。

だから。


あぁ、自分は一体なんだったのか。
今まで、彼と共に過ごしてきたと思っていたその空間は、
彼とのモノではなかったのか。
それすら、違っていたのだろうか。
分からない。

誰が悪いのか。
いや、きっと誰も悪くない。
では、何を間違えたのか。


そして聞いた最後の話。


「エディ・・・この子を一緒に育てていこう」


布団の中でも。
はっきりと聞こえた。
そして、背中を撫でていた手は、お腹に周り、
それまでと同じく、ゆっくりとお腹を撫でた。


・・・子ども。

ここに?まだ胎動も、膨らみさえ分からないここに。
命が宿っているのか。


あぁ。
お母さん・・・もう。


「出てって・・・」


それだけ言うのが精一杯。
泣きたくなんてなかったけれど、涙が溢れて止まらない。


大好きだった母さん。
大嫌いだった父さん。

愛してくれた母さん。
愛してくれなかった父さん。


恐い。
恐いの・・・。
自分があの暖かい母のようになれるだろうか。
こんなドロドロの感情で?

あの向日葵のように笑った母のように。
あの山水のように清冽だった母のように。

そして。
1人で泣きながら、夫の帰りを待って。
そうして死んでいった母のように。

残った子どもは、父を恨んで。
1人で生きて行くのか?


「・・・どうしろっていうっ・・ふぇ」

 

 

 

 

 ロイエド子 /